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“だれ一人自分のためにだけ生きている人はいない”

思い違いが人生だ

思い違い

どこにしまったのか分からなくなっていた庖丁が出てきた。それも出刃と柳刃の二本の庖丁。けっこう思い切って買った品だった。探しに探した挙げ句見つからずあきらめてしまった。どこに雲隠れしていたのか。いや、庖丁が隠れたのでもなければ庖丁の方から出て来た訳でもない。僕が探しきれなかったのを妻が二本ともに見つけたのだ。でも、やっぱり突然ひょこり向こうから出て来たという感じで、それも10年ぶり。驚き桃の木出刃庖丁!「おやまあ」「あらまあ」と二人して思わず声に出してしまったのだった。

とんでもない思い違いでも、それはそれで僕らの生きてきた一局面にかわりはない。エラーやミステークが原因で最悪の結果になることもあれば、好転のきっかとなるのは、よくきく話しである。 何もないところに変化は起きない

もう少し僕の場合を文字にして記憶に留めておくことにしょう。

生きるためのシンコペーシン

(間)違いだらけのオンパレードの僕が、今さら僕の未熟さや無能さによる失策を繕うつもりはない。なぜあえてここに書くかといえば、そんな僕でも悪いことだけが起きたわけではなかったからだ。

先ずは一つ目、間違い効果。 間違いはない方がいい。だが、現実は原因や内容に問わず、ことの(思い)違いということの真偽の差異が、僕の体のリズムにズレと強弱が生じ、その動きの変化で気持ちが沈まず拍に促されてかえって快活になり、竟には事態が好転したことが幾度かあったのは確かだった。 (思い)違いはエラーではなく、人生の楽しさだとさえ思う。この運動を僕は、生きるためのシンコペーション1と呼んでいる。この 揺さぶり はなかなか良い。生活のリズムがいっそう活発になり、変化に対応していく内側からの躍動は言葉では表せない。ねむい単調なリズムが生き生きとしたリズムになると言ったらわかりやすいだろう。だから、へんな言い回しでも、はじめそう感じたから今も シンコペーション効果 と呼んでいる。

ミスが幸いにも最悪にもなる

次に二つ目は、間違いの結果。 振り返れば、(思い)違いでもあり、妻との出会いは、ちょっとした(手)違いで予定を変更した飛行機に乗り合わせたのが縁だった。隣り席の乗客が生涯を共にするとはよもや考えもしなかった。もう50年近くになる。これはミスが幸いとなった結果だ。違う飛行機ならば、今の僕らはいないのである。で、ほんとに幸いであったかは妻にまだ聞いてはいない。たぶんOKだろう。大切なものはどこにあるのだろう。それはその大切なところと思うところに一人ではなく、二人で一緒にいること。そこに還ること。言葉ではないところだ。

で、いろいろなことがあって、昨日は昨日で暢気なことに、とんだ(思い)違いで勤務を二時間も早く(間)違えてしまい、休憩室で時間を過ごすことに相成った。世知辛い毎日、あくせくと働く自分がゆっくり解放されてゆき、思いも寄らぬ時間の中で、まるでエアズロックの世界の臍に遭遇したようなありえない感覚は、実に(場)違いなふしぎさだった。妄想であるかも知れないが閃くものがあった。背筋がピンとのびる感じ。些細な(間)違いが自分が正されるとは、考えもしなかった。妻に話しが、意味不明の話しを聞くかのように開いた口がふさがらないと呆れ顔、コメントはなかった。僕は十分楽しんだというのに。

エラーやミステークには実に多くの好転への恵みの種子を孕んでいる。だが、ミスによって奈落の底に暗転する最悪な状況になったことも正しく書いておかねばならない。30数年前、急死一生をえるという山での滑落事故がそうだ。逆も真なりなのだ。暢気な僕もさすがにこの時はまいった。こたえた。

違いの境界に立つとは

思い違いが良いとは言っているわけではない。ない方がいい。たが、 世の中には、勘違い 擦れ違い 行き違い 場違い 筋違い 仲違い となんとエラーやミステークの多いことか。間違いで成り立つ世界。それなら、間違いをエラーではなく《違い》として捉えて考えみたらどうなのか。

「A = A」「A ≠ 非A」「真」と「偽」の論理。真でないものは偽とされる。 互いに二つが対立するのではなく、むしろ正が否に変わり、負が正を呼ぶというのが現実に起きることがある。白がいつまでも白ではなく、いつしか黒に。黒が途端に白に。善が悪に、悪が善にと。

境界

ロジックと変化を混同してはならない。 この《違い》この真と偽、正と否、正と負の相反する境界を行き来するのではなく、この境界の線の上に立つことは出来ないものだろうかと考えることが稀にあるのだ。中立ではなく、否定せず肯定しながらその相反する 境界に立つ ということを。

超えようとする

かつて詩人の高野喜久雄はイタリアに招聘されて「無」についてこう述べている。

ここに一枚の紙と鉛筆があります。 この紙の上に閉じた円を書き、紙の上を円の内部と外部とに二分します。 もしこの円の中を「有」と名付ければ、外部は「有で無い」つまり「無」の部分です。ではこの円、この紙を二つを分けた境界線は何なのでしょう、有なのか、無なのか。しかも、この線の上に立つことで、有と無を一挙に超えようとする不思議な考え方(Kitaro Nishida)もあったのです。

漠として捉え難い西田哲学。金沢に行った折に宇野気の記念館に寄った。安藤忠雄の設計が西田幾多郎にマッチしていた。

自同律の破棄

漠として捉え難いといえば、森敦がいるではないか。現実と虚構の狭間を自由に往還しながら、

現実は現実、虚構は虚構という自同律が完全に破棄されている。現実こそ虚構であり、虚構こそ現実であると何度でも裏返して現れてくる世界。それが森敦の世界である。

と述べたのは平岡篤頼先生であった。

変えられることの均衡

自然界は「A = A」の同一律でありながら、つねに破壊と合成の繰り返しである。変わることで均衡を保っている。昨今、動的均衡という言葉を耳にする。「A = A」という同一律は破棄できるのか。破棄したと同時に同一律の枠に再び嵌められるのではないか。

《違い》をネガティブなものとせず、《違い》を肯定し、さらにその《違い》の正は正、否は否の境界に立つということが、一体どんなことかまだよく見えてこない。

人間は謎に満ちている

未だ、違いの変化を僕は往還する。単なる(思い)違いの話が、西田幾多郎や森敦のことまで話がひろがった。絶対的な答えはない。これもまた謎の思い違いのかもしれない。ここは何もないところではない。何かがある途上。 何もないところに変化は起きない 。これはトリックではない。だが、もう時間がない。ひとまず僕の小さくて少し長い呟きを終えることにする。さあ、これからどう展開し変化するのだろう。


  1. 元来リズムに関連する音楽用語だが、これは固有のことだと思うが、この躍動感は自分の力ではなく、与えられたものだという思いが強い。