Emmausブログ

人は見ね/人こそ知らね/ありなしの/われは匂ひぞ/風のもて来し

時代は変わる?モノ消費・コト消費について

思いは言葉に 関わり合うモノ関わりあうコト 

「在るもの(モノ)」と「得ること(コト)」の相違。

例えば、本はモノですが、読むコトを通してコンテンツ(内容)を取得するコトが出来、レコードやCDもモノですが、聴くコトを通して内容を楽しむコトが出来価値という充足を得るコトが出来ます。

確かに、本は本のコトの機能だけの電子書籍が台頭しサブスクになった昨今。また音楽もしかり。

モノの所有からコトの実践や体験、さらに共創。それが、経済のための消費の動きと強く結びつけたのが、モノ消費・コト消費の世間の流行となった現在。

しかし、「使い果たす」という消費にどんな仕掛けをしたところで、モノ時間エネルギーのリソースを使う果たすことには変わりはなく、それにどう意味を見い出すかは、こちらの私たち気持ち次第なのである。

つまり、その場のその瞬間でしか作り出せない現在性、その時を経て活用し利用するコトだとしても、トキメキの消費非再現性の罠という仕掛けに違いはない。

価値を見出すコトは、絶対なコトではなく相対としてのその人私たち次第。モノもコトも自在で自由であるべきだ。それが私たち自身に与えられた善さであるのだろう。むしろ、際限を知らない消費におけるの私たちの「欠乏感」こそが問題ではないのか。むしろ私たちの存在がこれから問われているのではないか。私個人は「モノ消費・コト消費」より「欠乏感」に関心が向く。

-- 最近読んだ本「Daring Greatly」Brené Brownが興味深い。

What we know matters, but who we are matters more. Being rather than knowing requires showing up and letting ourselves be seen. It requires us to dare greatly, to be vulnerable. (訳)私たちが知ることは重要だが、しかし私たちが誰であるかはもっと重要だ。知ることよりも存在、現れて自分自身を見せることが望まれる。それは私たちが無防備vulnerableになるために、大胆に挑戦することを要求します。

日々の眺めという現在は、私たちの経験や記憶に基づく。記憶はつくられ続けるものだから、私たちの一人一人にとって歴史は風景そのものというのなら、それを作り上げたのも私たち自身にほかならないのだから。