Emmausブログ

人は見ね/人こそ知らね/ありなしの/われは匂ひぞ/風のもて来し

思う

与えられたもの

〜新しさと記憶について〜 分化 雨が強かったのか。風が烈しかったのか。草花のぐったりと萎えた静かな朝だった。その回りには未だに妙に生気が漂っている。吐息が聞こえるようだった。植物には息づかいというものがあるに違いない。雨風の勢いというよりも…

結び直す

もう一度丹念に「在ることの驚きの中で」高野喜久雄を読んでみる。 「見るためには、眼を閉じねばなりません」と言った人もいました。眼を開き眼を閉じて、結局のところ私達は何を見るのでしょうか。「在るもの」、「在ること」の不思議、その驚きの中で、私…

友情

出会いは偶然である。それが一致(合致)に至るならば必然でもある。がその必然から一歩踏み込んで心を言葉のかたちに填められたものとすると、そのよってたつ自由は言葉によって突然頑なになる。ある友情の幸福は別な友情の不幸を補填するようなものでもな…

存在って何?

写してまた映されるもの。二重のわたしで<在る>ということ。どんな意識でもなく、でも意識現象として立ち現れる粒々。その確かなものたち。 ここにわたしが居て。それを見て。あなたを見て。そして世界を見る。だから世界。またそれらを包み込みこんだ世界…

河井寛次郎

二ヶ月前から仕事で難題が重なっていた。荒んだ重い気持ちで、ものづくりの仕事に疲れくたびれ果て、やることなすことが次々と裏目になっていた。 「いのちの窓」河井寛次郎著。人間国宝や文化勲章などに推挙されるが応ぜず、自らの世界を切り拓き、陶芸の枠…

幸いと喜び

幸いと喜びは同じところにあるようでそうではない。 戸外の明るさにさそわれて久しぶり長めのジョグ(走り)に出かけた。林の下草は緑も斑だが沿道に続いる。思わぬことに途中で小川の河床に一羽のコサギ*1がいるのに出くわした。コサギが群れから抜け出たと…

シンプルにしたい

西田幾多郎は自分の生涯をふりかえってこう言ったそうだ。「私の生涯は極めて簡単なものであった。その前半は黒板を前にして坐した。その後半は黒板を後にして立った。黒板に向かって一回転をなしたといえば、それで私の伝記は尽きるのである」。 坐するは座…

経るということ

「われわれは何処から来て 何処にいくのか」 経験・自己・他者・叙述・表現・理解・関係・世界・歴史 人格・仲介・重力・意志・肉体・友情・執着・欲望・整合 地図。地図を経る主体と客体。現実その差異。そこの「事実」に足を置く。さらなる地図の表象。常…

見えないものを見る

確かさ哉明くる林に冬芽あり見上げるとすっかり葉を落とした林。それだからこそ野鳥の動きがよく観察出来るというもんだ。やってるやってる。ツグミ、メジロ、ジョウビタキなどなどが餌を取るのに忙しい。見えなくなって見えてきたものたち。 そんな枝だけの…

勇気と幸福

◇ミネルヴァあるいは智慧新たな年を迎えた。休暇はゆっくりくつろげた。よって日頃から溜まっていた疲れもすっかり取れた・・・。そんな中、常々読んでいたリール遊民夫婦の手記勇気と幸福(アラン) - KIYONOBUMIEのエントリーに眼がとまった。そのブログに…

空間・時間

棟方志功だったろう。「空気を写せ」といったのは。畑の初冬の景色などは誰も気ままに楽しめばいい。だが、いざこれが表現で捉えるとなると見えぬものとて写しださねばならない。ましてこの眼に映る対象物ならなおさら。「この空気は何?」という抜き差しな…

わたし・時間

かつてのワタシ これからの私 今のわたし 先ずは主が渉られた それを今のわたしが返すのだ 永遠はあなたのものだから 主は今のわたしが語ることを知らないはずはない 時間の内に起こることを与えたあなたは なほわたしたちの今・現在(時間性)において見ら…

現実

やはりつながれていること - emmaus.hatenablog.jpはこの現実においてしかあり得ないのだ それもその水の流れの勢いも速さもボクらを超越した世界が何よりボクら自身の意識のもとに立ち現れるということにおいてこそ意味をもつ たとえそれが仮想というものか…

つながれていること

しかし だからこそ確かにボクらが呼ぶのではなく〈鋭さそのもの〉-あなた-が呼ぶのだということをも了解した 何故ならそれはボクらの意識が新たになるというよりも ボクらのもつもの?!を越えて その情景が新たに立ち現れたと言ったほうが適切であったから…

立ち現れる

風に靡く草がほどなくして静まり返った時こそその印象を日ごと新たにして まさに感覚質というべきものでしかないものとして 意識に立ち現れてきた それを機会にしばらくボクらは言葉を失った秋暑 - Emmaus’ だがある日川の下に下りていったら急峻な流れに逢…

あなたはあなた、それでいい。

The important book世にある児童書。子供向けなのにその実、大人に受けているという類の本。「だがなぁ 何ともビミョウだな」とボクは思う。どこかで大人が失ってしまったものってある。子供の時の郷愁、それってただ今の大人の慰みのような気がする。それは…

道のりへの思惟

道があり この道はわが道ということも言えるのだろう わたし独りなら・・・ それにもまして ある人が向こうからやって来たとしても わたしたちの道などは言い難い 知っているのはただ自らの道のりだけであって 相手の道のりではない それがただの通りすがり…

根源語

根源語の構造 二つの根源語*1がある。 根源語とは単独語ではなく、対応語*2である。 〈われ-なんじ〉という対応語 〈われ-それ〉という対応語 には彼と彼女の何れの代入をしても根元語には変化はない。 従って人間の〈われ〉も二つとなる。 人間の態度は二つ…

清貧=時間性

だけど、むろん本来ありうる人の「善さ」といったところで、それが自らから出るものではない・・・ということは、人の中であるいは自然の中でよく額に汗し体を動かして「働く」ということと、それに伴う時間の中でそのほんとうの確かさをボクらに示してくれ…

一緒に在る

〜森有正「流れのほとりにて」から〜 人間が美しい人格とともに、避けることのできない欠点や暗さを終わりまでもちつづけることは、それ自体偉大なことではないだろうか。これも亦その人間そのものの姿なのだから。私の存在が示す、僕にとって、もっとも大切…

解かれる憐れみ

不幸 飢えて死に瀕する、その路傍に横たわる不幸な人間。神は慈悲(Misericorde)を抱くが、パンを送りとどけることはできない。その場に居合わせるわたしはさいわいにも神でない。わたしは一片のパンを与えることができる。これが神にたいするわたしの唯一…

なぞる招き

ボクが呼ぶのか。あなた「あの方」が呼ぶのか。それは分からない。 眼を閉じて鉛筆の先で机をなぞってみてごらん ボクと鉛筆 ボクの躰につたわる鉛筆 ボクらのために果たす鉛筆 そうさボク自身の有り様でないのだ そうして ボクらのためにでなくそのボクらを…

月をさす指/目覚め

月は今は出ているだろうか。その時そう思うだけでなくあなたは何よりもその時外に出て確かめてみるだろうか。ある朝わたしは空を仰いで西に沈む頃までを眺めていた。真実はただ実際に生きて経験すること。そう出来るだけ。そこにいるのか。いないのか。だが…

沈黙出来る?

アウグスティヌスは言う。 「人が神について語ることのできる最もすばらしいことは、内なる豊かな知恵に従って、沈黙することができるということである」と。

 自己

わたしという自己は自己の総体として複雑な綱渡りをしているのではないか。かろうじて自己の部位の相互作用を基点に自己の維持が通常は円滑に保たれているのではないか。・・・それを越えるものの光に照らされる。 http://homepage3.nifty.com/riverine/pete…

 時間 

人知れぬある魂。その魂をとらえるもの。「魂をとらえ、わがものにするために、神は時間と空間の無限の厚みを横断し、力を使いはたす」。時間と重力。そして家。・・・。2005-01-07 - Emmaus’

 一なるもの 離脱

わたしがそこに見つけたのは、純粋な離脱はあらゆる徳を凌ぐということに他ならなかった。なぜならば、他のすべての徳が被造物に対して何らかの結びつきをもっているのに対して、離脱はあらゆる被造物から解き放たれているからである。だからこそ、わたした…

照合

そんなふうで会田綱雄のダラダラのニチジョウがくねくねとした深沈の繋がりをもって、ポール・ヴァレリーの失はれた酒に行き着くのは不思議と容易なことと思えてくるのもどうしたものだろうか。会田のそれとヴァレリーのそれがそうだと謂うにはやはりムリが…

心通じあうこと

人間の土地 (新潮文庫)作者: サン=テグジュペリ,堀口大学出版社/メーカー: 新潮社発売日: 1955/04/12メディア: 文庫購入: 27人 クリック: 223回この商品を含むブログ (200件) を見る ぼくら人間について、大地が、万巻の書より多くを教える。理由は大地が人…

魂の照応

一人の人間が、その人の魂で素直に自然と照応する時、そこに他の誰も真似をすることのできない創造が生まれるのだ。僕たちはそれを重んじなければいけない。そしてその創造されたものは自然に根を下ろしながら、それを高くこえて、人間の魂のヴィジオンにま…