Emmausブログ

人は見ね/人こそ知らね/ありなしの/われは匂ひぞ/風のもて来し

実存遂行と内省

この入門(「キリスト教とは何か」)は、事柄の性格から見て、一つの実験である。・・・これはキリスト者であり、キリスト者たらんとする者にとって、決して恣意的な神学的な諸問題ではない。ここでは、自分自身の存在の全体がかかっているのである。これは詳述すべきことであり、常に根底に流れる動機であるが、人がキリスト者たるためには、何もキリスト教のすべてを学問的に正しく内省し尽くす必要はない。・・・だからと言って知的誠実さに欠けることにはならない。
キリスト者たることは、一人のキリスト者にとって、究極的には自分の存在の全体である。そしてその全体は、神と呼ばれる存在の暗い深淵へ導く。これを試みる者の前に、偉大な思想家たちや聖人たち、そしてほかならぬイエス・キリストが立ちはだかる。・・・キリスト教信仰の姿、キリスト教の信仰と生活の姿を、たとえ単なる理論的内省においてなりとも、一つの全体として提示しようとする、そのような試みは常に繰り返しなされてきた。「使徒信条」に始まり、教皇パウロ六世の「神の民の信仰宣言」・・・聖アウグスティヌスの「信望愛に関する資料集」等々。・・・
しかし、キリスト教の全容に関する内省は、絶えず新たに試みられるべきものである。内省というものは常に制約されている。一般的に言っても、また特に学問的、神学的なものであればなおさら、われわれが信じ、愛し、希望し祈りつつ体現している現実の全体を決して完全にとらえ尽くすことはできぬからである。われわれはここで、まさにこの「原初的」なキリスト教的「実存遂行」と、それに関する内省との間の絶えざる相違に取り組もうとする。この相違をわきまえていることは、キリスト教信仰を理解するためにの入門にはどうしてもなくてはならぬ前提である。
われわれの究極的に意図することは、このごく素朴な問いを考えることでしかない。すなわち、「キリスト者とは何なのか。そして、今日、知的良心に対する誠実においてキリスト者たりうるのはなぜか。」この問いは、キリスト者たることの事実から出発する。もっとも、キリスト者たりうることは今日キリスト者の一人ひとりにおいて、実に様々な形をとるであろう。それぞれの成熟の度合に応じて、社会的かつ宗教的は状況の違いに応じて、心理学的な特質等に応じて、様々に制約されるものであろう。しかしこのようなキリスト教信仰の事実も、やはり、ここで内省されるべきである。そして、この事実自体に関して、われわれは真理に対する良心にかけて、「希望の弁明」(1ペテロ3:15)をなさねばならない。
キリスト教とは何か」カール・ラーナー(百瀬文晃訳)序論より

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「心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。」1ペテロ3:15
そして、その前の聖句「もし、善いことに熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。」1ペテロ3:13とあった。