Emmausブログ

人は見ね/人こそ知らね/ありなしの/われは匂ひぞ/風のもて来し

無我

AはAである。BはBである。ならばAはBであることが出来ない。

AはAではない。BはBではない。AはBであることが出来る。

ハナっから、無我と云われてもピントこないし、煙にまかれた?ようになるけども、すべての現象はこの無我をその性質としていて、この無我ということの意味が、すべてのものうちに同一性をもたないことだと了解するならば、話は全く解けてくる。
やはり、このへんあたりは禅はかなり鍛えられている。どうやら釈尊は悟りや目覚め(ものの本性を見抜く)のために、われわれの日常の癖や常識や思いこみ(先入観)をぶっ飛ばす(取り除く)ために、とんでもない飛躍やその思い切った手法が取られてきたようだ。まぁそれが温くない?禅において端的に表れている。
釈尊は、ひっくり返し、壊すために、この無我の考えを用いた。で一切諸法無我となる。またこの無我を支える上で、仏教では無常を併せて説く。連続する刹那たる、二刹那においても自らのものは留まることなく変化し、同一性を維持することは出来ないと説く。故に時は無常でありまた無我だとも言える。こうして無我は無常であり、無常は無我だといえる。
でもこの無我は行動原理の真理と言うわけではなく、悲観的な道徳原理でもないこともどうやら理解も出来てくる。その辺のことは丹念に深く吟味するべきだろう。無我といってオノレを殺すことでは決してないのは自明のことだということにもなってゆくのだ。

これは対立概念ではない。対立と関係 - Emmaus’
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