Emmausブログ

人は見ね/人こそ知らね/ありなしの/われは匂ひぞ/風のもて来し

言葉の果たし方

  • 言葉には、それ自身によってもの事を比べたり確かめ、明らかにするということがあって、
  • また、それとは違って言葉自身が見分けられることもなく、ただ厳しく示されるということもある。
  • またさらに、言葉の伝え方や述べ方のかたちということがある。

お硬く?まとめると

  • argumentative 論証的
  • appellative 勧告的
  • narrative 説話的

になるのだろう。
その三つは言葉の働きでもあり、言葉の本質や要素であり、またそのもの実体としてのかたちでもあるのだろう。
だがこういう話が何か言葉の言語学の一般の単なる構造や本質ということの話になってゆくとボクには全く眠くなるのだ。
だけども(話の枕が長すぎるな!)、これ(言葉)を聖書的に参照するというよりも祈りそのものとし観ていくと光が射して、思っている輪郭がすっきりして何やら目覚めてくるから不思議で、嬉しくなってもくる・・・。
先ずゆとり?をもって次の聖句を横断してみる。

次に「説話性」を中心にパウロのローマ書を眺めると実に『救い』の構造-キリストのメッセージの核心-に光がどんどん降り注いで論証と勧告が響き合う。
救いの言葉というものが

  • 読み上げるのではなく語るもの
  • またその語られるものを観るのではなく聴くこと

であるのを実に良く感じ入ってしまった。慌ただしいニチジョウの生活でも体のツボを強くされてグーと唸ってしまう。Good! でもこんな話でもっと眠くなる人もいるのに違いない。昔だったらたぶんボクもそうだったに違いないからね。

      • 参考:G・ローフィンク「神学における物語り」

http://pweb.cc.sophia.ac.jp/~t-sakuma/dg_index/newtesttheol.htm