Emmausブログ

人は見ね/人こそ知らね/ありなしの/われは匂ひぞ/風のもて来し

空間・時間

棟方志功だったろう。「空気を写せ」といったのは。畑の初冬の景色などは誰も気ままに楽しめばいい。だが、いざこれが表現で捉えるとなると見えぬものとて写しださねばならない。ましてこの眼に映る対象物ならなおさら。「この空気は何?」という抜き差しならぬことにもなる。
btw
空間を経てボクらはそこに時間を経ることに気づくのだろうか。そう感じるニチジョウが有るのだけども。あるいは時間はそうでしかないのか?よく見極めないといけない。
記憶の場なら、そこに至る道が在って然り、またその場より他へ往く道もある。更にその場の空間に至ってもボクらは時間の継続の中に居る。どうやらその場・空間を写しとる(認識する)ということは時間を写しとる(認識する)ことではないだろうかと思えてきたのだが・・・。突飛なことではなく、このニチジョウにおいて。ただ単純には時間は空間には投影されないことにも了解できるようだ。記憶の時間との絡まる総体であり、その持続の表象だということになるのではないか。目の前には冬の畑が広がっている。