Emmausブログ

人は見ね/人こそ知らね/ありなしの/われは匂ひぞ/風のもて来し

ナンダイ?

AはBである。・・・

仕事で難題にぶち当たった。なんともはやあきまへんわ。おまけに風邪で中耳炎こじらした。泣き面に中耳炎。そんなふうなこと言いますかな。
AはBであると言われて別段否定する事でもないから了解してしまい、でも後で何だか変だなとは思ってよくよく考えたにしても、結局そこに矛盾があることに意外と気づかないことがある。というのも、その言われた話題の内容そのものの真偽はよっぽど変でない限りボクらは問うことをしないことが通常で、話の言葉(要素)の意味や定め方がなされてなくとも内容に大して偽がない場合にはあっさり事を真と認めてしまう傾向があるからだ。たとえばこんなふう。「時計は時間を測る装置である。」ということで「時間は時計によって測るものである。」といわざるを得ない循環論法に陥った。 いやはや。で話もこじれに拗れ、尾ひれがつく有様、まいった。

話はやや硬くなるけども・・・

分からないことは分からないとそう言った方がいい。成り立たない話(命題)ならば受け入れないのが一番よい。だがその話をよしんば認めてしまったらどうするか。循環から抜けだすために状態を類推してよく話がちゃんとしてるか(命題の要素が定義づけ出来るか)精査することだ。たとえ話を続けると「時間は自然の二種類の出来事で測定出来ると考えられる。」とうことで循環から抜けだすことが出来る。そうして「一つは太陽の動き。もうひとつは生物学的と地質学的諸過程である。」と展開も可能だ。あるいは「時間は時の推移と流れである。」事柄から時間認識や存在に話を展開することも出来る。

循環論法〜回避

つまりは循環論法はある説明や証明をするのに仮定として定義されていない事柄(要素)がその説明の前提条件に含まれている場合に起きるって訳だ。それは前提条件になる事柄を前もって証明しなければならないのではない。大辞林でさえ定義と論証を混同している。というのも、本来命題自体は真偽を問うことでなく、命題そのものに真偽が割り振られているわけではないからだ。循環論法は、命題に含まれる要素を定義づけてないと云った方が厳密には正しい。循環になったら定義づけ新たにやればいいということになる。だが、云うは易し行うは難しと言い訳考えたりして。まあやってみるしかないぞ。

良識

類推などというとまた躓きやすい。話を面白くするなら好いが、要は分からない事を問題解決において、今まで誰でもが知っている似かよった状況(事)を考えてみるという地味で確かな良識的なことになっていく。これは経験を積むということでもない。こんな時やはり頭だけ動かす人は事の実際の良識をとことん知らないから、飛んでもないことやヘンチクリンなことをやらかしてしまう。いちいち良識ということさえ問いただし始めてしまう。さいごには何故循環論法がいけないのかという事を言いい始め声を荒げる始末である。

それであたまは柔らかに・・・

まだ何にも問題解決してないけど少し問題の輪郭が浮かび上がっり気分も少しスッキリした。最後は分からないことは分からないという正直に落ち落ち着くのかも知れない。ともかくスッキリしたのはいいけどまた風邪がひどくならないようにしたいってっことは確かなことだ。この話はナンダイ?ということになってきた。