呼びかけ
APPEL
Calling
呼びかけ
鐘の音
何はさておき、そこにボクらがいる。みんながいる。限りなく孤独であるのかも知れない。ただそうであるのだから!悲観することはない。人はそうなのだろう。そうかも知れないってことで、だから Collaboration だから交錯する光。involve だから一人ひとりにきみに関わる。
ボクらがあなたに呼び掛けるのか、あなたがボクらに呼び掛けるのだろうか。音たちの中に、流れを分かちながらその音として音において深く潜在するものの中にあってこそ歌の担い手のボク自身をきみ自身を見いだし、ボクたち自身を見い出し音の粒々の覚醒であろうとすること。
そしてボクら一人ずつがその場所に分け入り、大切で大事なものを築き唱う。だがまた知らぬ内に築いた跡形はもう見えない。何故知らない内なのか。その流れの方向をボクらが知って望んだにしても結果は譬喩として知らないというしかない。何を?何故?それはボクときみだけでなく、あるいはみんなだけでなく、そこからの位相していく領野としてのある者という一者に辿る〈道〉に遇う。あるいは〈道〉をもった体系に居ると云うべきか。
だからこそ、というよりもその道の入り口という鐘の音。知らせたAPPEL。 偶然が必然にまた必然の中にある偶然の端緒が見え隠れする。何故なら唱うことのよろこびに満たされたから。それは幻ではないのか。では最後が分かったら始めに戻して再帰し還元できるのか。そうではない。凡てに始まりがありまた終わりもある。再帰循環。では何時はじめるのだその音たちの行為の実際を。だからやはり唱うことのプロセスによってしかあり得ない音たち。経験がボクらを定義する。その行為の中で音という〈名辞〉を自己という〈名辞〉を定義する。だから流れという経験。では信じているからか。不安ではないのか。むしろ自信や不安は結果ではなく原因にある。それよりも癒しより救いを求めているからオーケーだ。清らかさが欲しいのか。そうではない、清らかさより生きるいのちを受けたいから。すなわち、ボクらを更新しながら体系とへ向かって支えるものである音たちする意志に満たされたい。
あらぬ幸せのまねごとをしにきたのでもないのだ。もうそんなことは沢山だった。しかし、もし救いがボクだけのものだったらここまでボクはこなかった。もしそれがきみだけのものだったらここまでこなかったに違いない。ボクらたちだけだったら来なかった。それだったら一人して部屋のうちに祈りの癒しだけの音を聞いて唱っていればいいのだ。
ここは終わりではなく(完成というものでなく)ここから始まるという望みに満ちているから。終わりのピリオドは誰も自分では着けることは出来ない。どうやって終わりをあるいは完成を知ると云うのだ。だから今にしていつも限りなくその鐘の音は始まる。すべてこれからということの内に。歩まねば。述べなければ。語らねば。唱わなければ祈りの内に。静けさと測り合うほどの等比。留保はこの辿る位相を塞がせる。耐えるこ。あのいのちの呼びかけを聴いて知ったボクらはおのれを見いだしてそれに応えていこうとする。まだまだボクらはくたばるわけにはいかないのだ。
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Josquin Desprez (1140-1521)
Missa Pange lingua ("Chant, oh tongueS")
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- 1 Appel
- 2 Pange lingua (Plain-chant)
- 3 Kyrie
- 4 Gloria
- 5 Graduel: Christus factus est (Plain-chant)
- 6 Credo
- 7 Sanctus
- 8 Agnus Dei
- 9 Popule Meus (Plain-chant)
- 10 Qui velatus facie fuisti
- 11 O Domine, Jesu Christe
- 12 Christus mortuus est
- 13 Nos autem (Plain-chant)
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- http://www.aseivoci.com/index.html
- (サイトでデモが聴けるから)
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