Emmausブログ

人は見ね/人こそ知らね/ありなしの/われは匂ひぞ/風のもて来し

「祈り」は何であるか?

「祈り」は「祈り」自体が何であるかという問いそのものでもあるのかも知れない。しかし、それによってこの問いの中味には全然触れられるところはないのである。

いかなる定義を与えようとも、問いを問いとして示すに過ぎない。答えは「祈り」そのものによって与えられるほかないのである。果たしてしかし、「祈り」の表現とは何か?また人間行為の「祈り」における(批判的)精神とは何か?つまりは、(人間の)表現そのもの行為そのものは何であるのか?「祈り」そのものの深化において開くしかないのである。
それは既知の量として「祈り」そのものに与えられているのではなく、「祈り」を為すこと、また「祈り」への問いにおいてこそ解かれべきことである。だから「祈り」の問いの初めに規定することはできないのである。

我々は「「祈り」は何であるか」という問いの前に立っている。

和辻哲郎の「人間の学としての倫理学」を「祈り」におけるEmmausの援用と展開を試みてみた。「西田幾多郎先生にささげる」とあった。これは一種のこの本のエピグラムに相当する。