Emmausブログ

人は見ね/人こそ知らね/ありなしの/われは匂ひぞ/風のもて来し

〈ち・か・さ〉

新鮮だということは、こことそこ(これとそれ)、あるいは私とあなたとが出合い関わることである。つまりそこに何らかのある空間が前提として必要とされている。というのも新鮮ということは、その空間の〈間〉における間柄として生じた結果であるのだから。またそれ以上に、それが在るものとしてずっと時を経て互いに合わない(遇わない)のに、一気に反って時間の隔たりが近くになり始めて、新鮮が凄くふしぎにあくまでも私を通して〈時〉そのものをも強く考えることにもなってくる。

だから、新鮮だということは、私の主体が他のものに対して行為的連関にあって、時間と空間を一体にして、〈ち・か・さ〉を生じることだとも云える。それは空間の距たりの近くに居てもまた遠く居ても、あるいは今ということの中心から間をもっていても、過去であり、また未来のことでもあるという時間の内に、ともかく心の「ち・か・さ」は、成程「近さ」でなく〈親さ〉なんだということ。それを今日の今初めて二重の新鮮として解った。時空を超えて〈ち・か・さ=親さ・親しさ=し・た・し・さ〉を感じた。

そのように近さは距離を限定し時を経ながら時間を限定するけども、「親さ=親」は時空を包見込んで〈関わり〉を限定する(そのかたちに現す)。すると翻って新鮮が〈関わり〉に類似もするのも了解できてくる。つまりは、関わり>親さ>新鮮。

「関わりそのもの実体が神である」と、あるところで我が霊性の師が謂われたが、そこには必然も偶然も無いと謂われまた感動した。ならば愛によって「関わりが然り」ということなんだと思ったが、さてどうなんだろうか。そのように、二つが一つになるというよりも、一つそのものの内に関わりを持っているというふしぎがある。愛そのものは一つであると、今もいつもこれからもそう思っている。