Emmausブログ

人は見ね/人こそ知らね/ありなしの/われは匂ひぞ/風のもて来し

横たえるキリスト

忘れない内に書いておこう。

何時だったか・・・エックハルトの関連で
鈴木大拙師の本を読んでいたら、キリストの十字架像と仏陀の涅槃像との象徴的な違いを指摘している所に目が留まった。

話は約めるがこうである。大拙師曰く・・・
垂直性は行動・好戦性・排他性であり、水平性は平和・寛容性を意味するとある。
なるほどと思った。

それに因って・・・キリスト教は民主主義や普遍的な愛を標榜しながらも他者には排他的で威圧的な傾向がある。
さらに大拙師曰く・・・しかし仏教ではキリスト教のそれとは違って平面性が無関心かつ非活動を示唆し平和と静寂と安定を説く宗教であるとも述べている。

まあそんな結びで?マークがいっぱい。単純で素朴過ぎる二項対立。唖然として開いた口が塞がらぬ。揶揄するつもりはない。が自然に反駁する言葉もつらつら上って来るのだが終いには何だか理由もなく可笑しくなってきてしまった。それでよく覚えてないが何か急に果たさねばならぬ用事が出来て本を読む方は中途で頓挫してしまったのだった。
その後それにしても、何とも大拙師の洞察が一方的過ぎて黙ってるのは口惜しいではないか!
ボクの部屋にはキリストの十字架像が壁に掛けてある。眺めても何かが引っ掛かって妙な気分の毎日になった。でいろいろ思い立つにもこのままでは気持ちも収まらないから、そのキリスト像を壁から下ろして平たいところに寝かせて置いてみたということに相成った。
一気に垂直性のキリストを水平性にしてみたという訳である。

落ち居るというのはこんな具合だと気持ちがせいせいした。何でもやってみるもんだ。以来その「横たえる?キリスト」はボクの机の傍らに今もそのままなっている。草葉の陰で大拙師も苦笑されているかも知れぬ。 

横たえるキリスト。このアイデア。けっこういけてると思う。これってどうだろう?