Emmausブログ

人は見ね/人こそ知らね/ありなしの/われは匂ひぞ/風のもて来し

十字架への洞察・鈴木大拙

鈴木大拙の「キリスト教と仏教」で印象的だった箇所を引用。

復活ということがないと、十字架は全く無意味である。しかし、復活したものは昇天してしまうけれども、大地の土壌は依然として十字架に固執し続ける。ところが、さとりの場合はそれとは異なり、さとりの瞬間には大地そのものが浄土と化するのである。天に昇って、地上でこの変革があるのを待ち望む必要はないのだ。
神秘主義 キリスト教と仏教 p187

この洞察は意味深い。さとりとは、一人悟るという意味ではなくもっと広い意味合いで、慈悲を般若(智)によって御仏に開くことで清浄な世界になるということだろう。ものすべて実体はなく、般若=Transcendental wisdomの眼による無我において見透すということだ。しかしキリスト教においても、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」ルカ 4:21のようなことが述べられているのだが・・・。

顔が違う。声が違う。好みがちがう。考えが違う。生物において、「種」を構成している各個体の相互間に個体差があるのは、自己と他者の相互識別がより可能になるためであると述べたのは生態学今西錦司だった。

あなたがいる。ボクがいる。立場が違うといろんな見方がある。様々な見方、いろんな人が。自由に考え意見を言えることはいい。立場が違う中で互いに主張し合ってもそこに新たな何かを見出すのがいい。