魂が見出す
魂が私を見出すことについてのメモ。魂が私を見出すことは出来ないと思える自己理解。そしてあるいは、私のおぼろげな上に対する(神)理解。上よりの救いは明らかだというのに・・・。
未だ明けぬ朝に、意識が穏やかに目覚める。先ず触れる。微かにある祈りに触れている。だがこれは、自分のものではなく明らかに誰かの祈りだろうと、そう思えるものの他者に触れている感覚なのである。
それもあろうことに、他者の実在の根柢というものに。その内面そのものに触れる。果たしてボクが他者の内面に入っていけるか。そうとも分からぬままに触れることが可能か。だが真っ先に触れる感覚がある。
だからここに確かなことが二つあることのみを書きしるそう。
- 語ること
- 触れること
- 見出すこと
- 到達すること
一つは・・・
やはりこれは自己でなく誰かという他者意識において語られること。それによって祈りの根柢の内面 -つまり魂- に触れることが可能なのかも知れぬということ。だから魂が私を見出すことは出来ない。私は祈ることは出来ても私の魂について語ることは出来ない。
もう一つ・・・
これは誰かの祈りの根柢の内面であるが、遠くはるかな誰かというよりもここ居る誰かである近しい親しい内面ということ。
そんな魂として・・・
魂は神の本質という永遠性の中に沈潜するが、その根柢にまでは決して到達することはできない。この二重なことでボクはようやく自分を見出すことが可能になる。この他者が自分であることが浮かびあがってくる。同じくまさに魂も私を再び見出そうとするかのように。