Emmausブログ

人は見ね/人こそ知らね/ありなしの/われは匂ひぞ/風のもて来し

クリスマスにありがとう

今夜(24日)遅い時間ですがクリスマスのイブミサに与りました。今さっき帰宅。仕事がらみで気持ちはほんとうは落ち着かなくても「やっぱりそれきみにとって大切なことなんだ」って、少し余裕ができた自分を自分が見ている自分。特別な料理でもお祝いでもないけど、普段よりも少し高めのワインとちょっとした下ごしらえをした料理だった、さっきいただいた。「おめでとう」「よかったね」「ありがとう」。って感じ。去年のクリスマスって何してたんだて思って去年のブログみた。なるほどね・・・。


エッサイの株からひとつの芽が萌えいで
その根からひとつの若枝が育ち
その上に主の霊がとどまる。
イザヤ書11)


ともかく時間っていうのはふしぎで・・・物事には確かにピンポイントの時があるのは事実で、それにむかってボクらは歩みを進めていて、確実に時間だけは過ぎてゆくのですね。

何が惹きつけるのだろうね。クリスマスにこうも・・・
12月24日から25日の一日は一年のうちで他の日とそう違いもないようでも、やはり特別な気持ち。切られた古株に一つの若い芽がつくのを待ち望んでいる。・・・ですな。ふだんとやっぱり違う。自分の家のことや親戚のところ、友だちや知り合いのところの話しでもないのにね、新しい命が生まれるのを待ち望んでいるというふしぎ。

クリスマスによく引かれるルカの福音書ではなく、ヨハネの方だけども・・・。言が人としてお生まれになることの喜び。ちと分かり難いよ。でもうれしい。それにまた、み言の光っていうけど・・・ヨハネがはじめにロゴスって何だか掴みにくい言い方するけども。それ何っ?。でも次に「言の内に命があった」・・・と言われ、「命は人間を照らす光」だっていわれてドキドキで、確かにそのロゴスが「ボクらがボクらである」とあらしめる!?のだよ。ここに至って何だこれってすごすぎるって、ずっと同じ文字を読んでいたのに、ある時にすごいってこの聖句にびりびり感じたのを覚えている。ただの文字の羅列が生きた言葉になって語りかける。でもそれは煌々と光り輝く光ってより「灯り・ともしび」というささやかな親しい小さな感じ。だってまだその小さな灯火の明かりに照らされて揺れているボクらでもあるのだからと思った。

それが「わたしたちの間に宿られた」。うれしいけども、光がうれしいというより何かのしみじみとした親しさで「ありがたい」って感じ。だからボクらにとって父を啓示するロゴスとあらたまっても、畏れよりもう何かふつうの自然な穏やかさがある。やはり、ささやかなことでもなくすごい光であるかも知れないと思うけど・・・。正直いって大きいのか小さいのかも分からない自分。もっと正直に言うと、どっちでもいい。でも包まれるようなものでなく、見つめられているみたいな。それも安心して見られている感じがあって、それっていままでになかったということなんで。ボクがボクでいていいってやはり感謝だけど、救いというものを出会ったこと、救いというものがあるということが一番の驚きで「ありがとう」だった。

それはボクらがどんなに待ち望んでいたとしても、待ち望んでいた以上に、与えようとした神さまの方がいるということ。これが分ってくるとボクら以上にこの日を救いの新しい芽を与えることを待ち望んでいたと思うと、気持ちがいっぱいになる。プレゼントをもらう方も待っていたけど、それ以上にプレゼントをいつかいつかとあげるのを待っている親の気持ちである。この話とよく似たような話を今夜のY神父はお話しておられた。へへぇ。与えられることが先にあるのではなく、与えようとすることが先ず先にあるということを、まるではじめて知ったようにしみじみと感じる。見えない方をどっかにみんなで感じながら食事をしているって、なかなかおつですよ。この歳になっても。いやこんな歳になったからかもしれない。