Emmausブログ

人は見ね/人こそ知らね/ありなしの/われは匂ひぞ/風のもて来し

わたしを物語ること・サイードについて

あるいは、「パレスチナとは何か」サイードに関して

世界政治からみるということよりも
<記憶> <物語ること> <神話と歴史> 突きつけられた「生きる」問題から見てみる。

パレスチナ」はイスラエル対アラブの対立構造の中でパレスチナ人そのものが無視され棄てられた歴史そのものという「パレスチナ問題」と捉えることができますが、その構造は中東政治システム「アラブは一つ」というアラブ民族主義から国民国家体制へと移行する過程の単なる現象ではなく、世界の体制への再編の中での大きな軋みと犠牲だとみることが出来ます。

しかし「パレスチナ」を単に世界政治としてを語ることこそ、自国の犯罪行為を認めようとしないイスラエルの思う壺だという逆説が階乗的に起きてきます。サイードが伝えたかったのは、まさにここで抑圧された側のものの物語を語ることが一番の要だとするならば・・・わたしにとってパレスチナが何んであるのかを言うよりも、この際パレスチナそのものに関わるサイードの述べたこと自体をわたしが思い巡らした方が良いと思われます。

先ずパレスチナに対するサイードの機軸(活動)は・・・

  • パレスチナの記憶を肯定すること
  • 2抑圧された側の物語ナラティブに行うこと
  • 3支配的な神話やその視点がそのまま歴史にならないこと
    • この三点がサイードの要点だと思います。

敢えて言えば3に関して、対立の視点を先ず見定めること。自己と他者を見極めること。 対立する視点を抜きに・・・支配的な神話や視点がそのまま歴史にならないこと。それを断じて許さないこと。それを決意すること。

ということで結論として・・・
イード
権力と知との相互補完という文化と帝国主義のもたれ合いを否定して、何よりも人文学という枠からオノレが雪崩れるように一市民として、集団という喪失感とセクトに対抗する普遍的で肯定的な『別の道』の追求したと思っております。

この『別の道』こそ、巨大な主題について論じる彼の試みであり、人間主体という問題が社会学政治学になることなしに他の次元のわれわれの行為が同等に可能性-現代における〈人間性〉-を見いだすことになるのではないだろうか。パレスチナは政治の問題というよりもわれわれそのものに突きつけられた「生きる」問題だと思うのです。まさに政治と宗教という抜き差しならない問題だと言えます。このような宗教に関わることですから以前からサイードに関心をもっていたという訳です。

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以上http://d.hatena.ne.jp/Emmaus/20070117/1169043348#c1169132082 wさんへの返答ということになります。