Emmausブログ

人は見ね/人こそ知らね/ありなしの/われは匂ひぞ/風のもて来し

聴くことの他者の存在

駅前の街頭でスピーカーをもって何かを訴えている人がいる。素通りする人、立ち止まる人。しばらく耳を傾ける人。全く無視する人。

ところで、ある事柄を話すこと語ることは、一人でも出来るけど、一方聴くということになると、一人では出来ない。他者の話すことがあってはじめて聴くことが成り立つのだから。話すことも聴くことも、どちらも一見、発話者と聴取者が想定されるが、聴くことの方がより他者を必要であると分かってくると、聴くということが受け身で有りながら聴き手の意志という主体性が顕かにみえてくる。

「死」を語ることと「死」を聴くことが人間の本質までにわれわれを導くならば、「死」の語りに居合わす発話者と聴取者のわたしたちの生きる実態がここにあるはずが、動かぬはずの「死」が私たちの「生」に飛び込んでくる。
ここで特に明らかなことは、自分が私の「身近な死者の事柄」の発話者になるのではなく、自分が親しい者の「身近な死者の事柄」の聴取者になることで、死と生に纏わることの、新たな可能性を引き出だせるということだ。

かつてid:karposさんは述べられている。

でも、それにしても、不思議なんですよね。Wさんもおっしゃってるように、「生と死」の対比じゃない…。とはいえ、自分が語ってる語りは生のくせにして、生に死が飛び込んでしまってる。それが、ぜんぜん「あたりまえ」のように。特に、自分が「身近で亡くなった人」のことを語るときではなく、私の身近な者が、その人にとっての「身近に亡くなった人」のことを語るのを「聴く」とき、さらにその深みを感じざるを得ないのです。

http://d.hatena.ne.jp/karpos/20060920/p2#c1158846913

聴くことの他者の存在が明らかになる。外より巡らせ眺めることより内から捉えようと始める。わたしたち全体を捉え直そうとする。内的な促しとはこのように導かれる。