Emmausブログ

人は見ね/人こそ知らね/ありなしの/われは匂ひぞ/風のもて来し

経験・記憶


あの時のコサギだろうか。以前の写真→http://d.hatena.ne.jp/Emmaus/20060306/p1 やや形が多きい。

  • 時は。既に一年が経っていた。
  • 場所は。イタリアでもフランスでも中国でもベトナムでもない。やはり日本->東京->小平。あの場所x=139.4&y=35.7。同じところ。
  • 誰が。このボクが。

時と場所。時間と空間。ボクがそこに「在る」ということは独我論ではない。何故なら皆もそれがそうあることだろうから。「個人あっての経験あるにあらず、経験あって個人あるのである」(西田:善の研究)。
一度ボクはフォーカスを世界にパンしてそして一気にあの場所に近寄ってみる。→http://map.hatena.ne.jp/?display=f:id:Emmaus:20060406052734世界地図を眺めるのって気持ちいい。でズームイン!
コサギに出合ったあのボクがいるか?もっと近づくとあの時の自分が居る気がするのが・・・不思議とリアルだ。そんな筈はない。このボクがそこにいる訳がない。

自分の過去と現在を結びつける。太陽が照っている。ボクの頬に今に注ぐこの光も太陽の今の光そのものではない。タイムラグ。過去といってもやはり今の現在のボクの意識。現在と過去との隔たりも時間継続の全体で一に語るがそれは単なる現在の拡張であるのだろうか?論理の脆弱性に陥るのではないかと疑問が湧く。がむしろ、それよりも今はひとまず身体の運動と現在を繋げた体系の〈行為〉を考えてみる。それにもまして、あのコサギが何であるのかと判断する前の事実そのままの経験に一体となる記憶行為におのれが居る。これはわたしの意識よりもっと確かなものだろう。想いより体というよりボクそのものが先に感応しているのだ。