Emmausブログ

人は見ね/人こそ知らね/ありなしの/われは匂ひぞ/風のもて来し

コミュニケーション・ある横丁の「裏道」

過去も刺激的だが、<存在>も刺激的だ

昨年の暮れに、相も変わらずのジョギング。その途上に急に北西に遠くの山並みが見えてきた。多摩の山々の間に雪をかぶった甲武信ヶ岳の頂だった。それに雲取山も見える。以前登った山々。懐かしい?。
だがどうだろう・・・
確かに走っているボクの方から懐かしい?山を見ているのだが、あの山が記憶としてボクの記録の構図にあるのではなく、あの山自体が今この走っている瞬間に記録を記憶として定義するという云えまいか。縮めていうとこの事態がボクそのものを定義する。これが森有正の云う<内的な促し>ということではないか。つまり方向づけの起点と終点の関係。自分の方が起点とも考えられるがそうでもない。「あちら」が起点として「こちら」へと帰ってきて今ここで動的な瞬間に、その事態を現実の切り鋒のところで記憶にボクが命名する。それ全体が経験ということを名辞する・・・間違っているのかもしれない。でもそう思った-考えた。なぜならボクは不定の動的な走りの地点から静的な不動の山に向かっているから、定義するのはボクではなく<存在>は向こうからこちらの方に来ると考えた。

やはり<存在>は向こうからこちらの方に来る。その事態を現実の切鋒のところでボク(ボクの現実だけということでなくわれわれの世界という現実の中でと云う方がいい)は命名することになる。切鋒がこちらに向かって来る誰でもないボク自身のこちらに。あくまでもボクの意識の在り方だろうし、ボクの心理のそんなんではなく・・・
その現実という経験が、われわれの生活の現実の事態を、一つの名辞によって見極める。

・・・そんなことをボクの経験があったので三上さんの写真に以下のコメントが流れていった。
森有正は「経験が一人の人間を定義する」と云う。純化された「感覚」には、その人の「存在」と一つに結びついた「質」が表われる(釘宮明美)。三上さん、コミュニケーション・ある横丁の「裏道」ありがとう。下の画像は「裏道」の経過だ。