Emmausブログ

人は見ね/人こそ知らね/ありなしの/われは匂ひぞ/風のもて来し

周縁に開く・ブログ力=対話的志向の創造

良い写真だ。みんないい顔をしている。見ることで聞えてくる声。聞えないのに聞えるんだ、ふしぎだな。そこに聞えるのは新たな流れと風の音だ。この顔がすべてを語っている。いいことには笑みがある。草原(ネット)とリアルの交叉する十字路に風が立つ。新たなる流れ。このところにみんなが居る。2008年5月この時を銘記しよう!!

祝・第1回京都会議開催&大分会議開催 - 記憶の彼方へ祝大分会議、京都会議成功 - 横浜逍遙亭に想いと気持ち(目標)を繋げたい。

さて・・・中心のない<周縁>というものがあるのだろうか。この世界がもしかつてのメディア(表現・出版・報道)が<中心>であると定義出来るとするならば、ネットにおけるブログ・メディアは<周縁>と名辞出来る。事態を命名することはそんなことだ。定義とは言葉の百科辞書の意味ではなく、わたしが人に対して人としてこの現実に生きる上でのわたしにある逃れようもないある事態を命名することだろう。
もっというと・・・ブログは、新たな可能性、対話的志向の創造だとも云えまいか。前のめりに志向するブログ力 - Emmaus’ このコミュニケーションの質は、単なる相互信頼という意見の譲歩性の限界を超えている。何故なら、先ず自己を保持した後に(保持したまま)次ぎに外界を覗くように社会(世界)に向う世界(事態)の自己ではないからだ。つまり自己が他者の中に組み込まれている中で自己を見いだし、その他者の関わる世界に自己がさらに定義づけられるものだと見ることが出来るのだ。

また創造においても、むろん創造は自己の絶え間ない醸成(思考)が基本にあるのだが、ブログの可能性は他者との関わるTBという機能で分かる通りかつてのメディアがなし得ない他者の関わりを可能性として抱き込んでいる事態そのものにあるからだ。

このように・・・今あるわたしたちの事態は、<存在>というものが、かくもわたしたち自身という<周縁>に焦点を当てながら新たな創造のわたしたちの通路にわたしそのものを開くこと(ブレイクすること)ではないか。中心とされていたメディアが、資本と権力にとらわれて自己の単一化と更に中心を強める勢いに営為して自己を<閉じる>ようになって久しいが、その合間にワレワレはどうやら新たな風と流れを自己を<開く>こと、つまり風穴を手にしたのだ(知るようになった)。