Emmausブログ

人は見ね/人こそ知らね/ありなしの/われは匂ひぞ/風のもて来し

何でもない一日が特別な日になった

横浜フィルハーモニーの演奏を聴いて

仕事を終えて帰りの電車の中さっきまでipodしていた。曲は、Ryuichi Sakamoto / parolibre / the sheltering sky (live_2009_10_7) 心地よい仕事の疲労感。ピアノの音。音楽は時への探求だ。shuffleしてDamien Rice

一度に多くの者の前で話す(演奏する)ことは出来ても、多くの話(音楽)を一度に聞くことは出来ない。ipodを停めた。ガタゴトという電車の音。車窓に流れる夜景。点されたされた家々の灯が見える。部屋の明かりに人の暮らしがある。もう横浜フィルの演奏会から二週間が経った。

ありがとうid:tsuyokさん。90分一本勝負の横浜フィルハーモニー管弦楽団の演奏を満喫し感動した。音楽の壮大なアンサンブルの楽しみを味わった。中山さん(id:taknakayama)補強できませんが遅くなりました(笑)。横浜フィルハーモニー管弦楽団のマーラー『復活』 - 横浜逍遙亭


我々は目に見えぬものでも瞳に生ずるような像に表そうとする、とりわけ数値化するのは何故か? 時間という有限の中でそれを数値に表現する一つが音楽ではないか。もしそうだとしたら、それは私たちの中に無限の空間をつくることが可能だ。それと同時に立ち上る歌の息吹を注入する。忘れていけない音楽のたのしみ。

ボクのクラシック音楽歴はまんべんではなく、個性と趣向が近代以前の小品をたぐり寄せるような偏った傾向だったのでマーラーの音楽はボクにとって縁遠いジャンルだ。クラシック音楽管弦楽というものは後にも先にもシャルル・ミンシュの音楽だけ(だった。ちょっとオーバー)。理由は簡単、外のものに不満だったではなく、ただそれだけで充足していたからだ。
10月に実は有楽町でid:sattsさんのお誘いでid:segawabikiさん、id:Ryu-Higaさん、id:atkuraさんたちと集まった。めちゃくちゃ楽しかった。その時tsuyokさんと話す機会があってその人柄の良さを知った。それがなかったら今度のコンサートには行かなかったと思う。出会いは不思議だ。あたらめてtsuyokさん、チケット送って下さってありがとうございました。シャルル・ミンシュの著書「指揮者という仕事」に「何よりも音楽を愛すること」という言葉がある。如何に熱心に音楽を愛するか、徹するかはプロもアマチュアの垣根もない。むしろ今の時代に必要なのはどうのような時でも場所でも<楽しみ方><生き方>を忘れないことだろう。セバスチャン・コーハイレ・ゲブレセラシエのやって来たことが走りであるならば、ボクのやって来たことは走りとは名ばかりのもの別ものだった、それでも走りだった。確かにプロとアマチュアの違いは歴然としている。しかしシャルル・ミンシュも一度アマチュアの指導して、その可能性を見いだしたという。音楽のサイトウキネンにも見いだすことが出来る。

ところで、前に福田さんid:fukukm10889がツイートしているのを思い出す。

宗教と、政治と、文学。かつては、「救済」を担っていたこれら3者のいずれもが、その役割を放棄したのが、おそらく20世紀の後半だった。その3者のうち、いちばん早く復活してきたのが文学とは。世界文学からもしばらく遠ざかっていたが、21世紀の文学に出合いたい気持ちが強くなった。
http://twitter.com/#!/kyokofukuda/status/5980102724

救済は生き方である。そこにもう一つ音楽をいれてみる。<私たち>を提示するのはプロでありアマチュアあり人間である今の手持ちのもので、それは何を提示というより、どのように語りえるか伝えうるかということではないだろうか。世界の行く末、音楽の行方。私たち市民が渾然一体となって。それが生きた方の豊かさに繋がるならば、豊かさをただ経済の物差しだけで考えることのおかしさと愚かしさが証明出来るのだと思う。この証明にはプロとアマの見方をかえなくてはならない。

その後ツイートでtsuyokさんに「演奏者として昨日のマーラーの復活の90分間一本勝負の感想を漢字二文字で表すとしたら何ですか?」と聞いてみた。

「語彙の少ない私には難しい質問です!3文字ですが、「紙一重」でしょうか、全ての音は0.01秒くらいの勝負、息つく暇がありませんでした。」http://twitter.com/#!/tsuyok/status/14131136489852928

ティンパニ奏者ならではのtsuyokさんの答えが返ってきた。

音楽は人との出会いでもある。まさに紙一重の我々の世界である。次回の横浜フィルのコンサートを応援しよう。