思い出ということ
読むという行為は、受容と傾聴と共感という<聞く>という行為に尽きる。ケアの場合において特にそうだ。
ところで、昔話や<思い出>という言葉が若い頃わたしは好きでなかった。わたしがセンチメンタルだったから。反対にわたしが強がっていたからだ。
ことしの夏のことだった。ある患者のAさんが、ぽつりと急に「摩周湖がきれいだった」という昔話をしてくれた。「今はどうだろうね」と訊くと、「もう行けんもん」と言われた。はっとして二の句を継げぬまま、「でも良い<思い出>があるんだね」とわたしの口から出てしまった。われながら驚いたが、自分からつい言った言葉なのにその〈思い出〉という言葉がとても腑に落ちた。でも恥ずかしかった。
確かに、生きることは良い<思い出>をつくることで、決して感傷的なことではない。自立とは自分の思いを出して自分の命を自分が支えるものだ。その思い出を話として私が聞きわたしの心に遺すのだ、<思い出>に生きるということをやっと理解できたのだ。そのAさんに教わったこの夏のことを繰り返し思い出しているこのごろである。