Emmausブログ

人は見ね/人こそ知らね/ありなしの/われは匂ひぞ/風のもて来し

ふたたびクマのプーさん展へ

渋谷のBunkamuraザ・ミュージアムでやっている「クマのプーさん展」にまた行ってきた。
東京の展覧会閉幕まであと4日。来場者多さにびっくり。はじめは二月、今回で二度目。うれしさが初めの時の倍1

見どころは原画

童話「クマのプーさん」、プーとその仲間たちの生みの親、作家のA.A.ミルン。そして挿絵画家のE.H.シェパード。

今回の「クマのプーさん展」は、ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館のシェパード・原画コレクション2を中心に企画、名目はクマのプーさん展だが実質「クマのプーさんの原画展」。E.H.シェパードのファンには願ったり叶ったりである。

A.A.ミルンについて

作者A.A.ミルンはむすこのクリストファー・ロビンの子ども部屋にいるぬいぐるみのオモチャをモデルに「クマのプーさん」のお話しをつくった。登場人物(クリストファー・ロビンの仲間たちのプーをはじめコブタやウサギやロバのイーヨー、フクロなど、)は、まるでこの世界に実在しているかのよう。A.A.ミルンは子どもの世界をおとなの手法で創作したが、この「クマのプーさん」を読んだ人は、"ほんとにA.A.ミルンはプーと仲間たちの中でいっしょに生きていた"3という思いを強くするはずだ。ぼく自身、物語の中にひきこまれてゆくふしぎさは、初めて読んだころと今もかわらない。

今回の展覧会では、創作の内側(E.H.シェパードに克明にぬいぐるみの綿密なスケッチを依頼したこと。森の構図の打ち合わせ。)などが明らかになり、原作と挿絵のハーモニーによる、創作とストーリーの真実性こそが読むもの観るものを惹きつけるのだと分かり自分の想像と同じで意を強くした。

ともかく、こみいったことを考えず、文章とイラストを楽しむ。そのほうがお話しの筋や転換の突飛さが自然に感じられ、作者のユーモアと子どもに対する当意即妙な温かさがリアルにすんなり受けとめることができるからだ。つまり、「クマのプーさん」は、登場人物たちが織りなす物語を誰でも生き生きとした世界として楽しく<ふつうに>体感できる読み物なのだ。

本の中のクリストファー・ロビンは、けっしてじぶんの子どもではない、どこにでもいる、ふつうの子どもを書いたのだと、ミルンは言っています。「クマのプーさん」訳者あとがき

ユーモアと温かさ

ぼくは、「クマのプーさん」続編「プー横丁にだった家」の第一章の、プーの家の時計が何週間まえから午前十一時五分前で針が止まっていてうれしそうにそれを見上げるプーがかわいくてならない。(実はこのぼくも止まって動かない腕時計をたまにつけてみるのでよくわかる)「もうかれこれ十一時だ。きみ、ちょうどうまくなにかちょっとひと口つまむ時間にきたんだよ。」というプーに苦笑しながらもぼくは <なつかしさ>さえ感じる。
あるいは、「クマのプーさん」の二章のプーがお客にいって、動きのとれなくなるお話では、ウサギに「パンには、ハチミツをつける?それとも、コンデン・スミルク?」といわれたときには、すっかり夢中になって「りょうほう」といってしまったプーのたべものに目がないシーン。この描写に作者A.A.ミルンのありのままの素朴さに笑ってしまう。
彼のユーモアと生きた温かさはどこから来るのだろうか。なつかしさとは親しさなのだから、軽妙さを合わせて考えると、これはA.A.ミルンの作家としての巧さでなく彼の人柄のよさに由来しているに違いない。

ミルンは、子どもの本は書きましたが、とくに子どもための本だけを書く児童文学作家ではありませんでした。たまたま、ミルンに男の子ができて、目のまえに子どもの心の世界を身近に見つめるチャンスができた時、ミルンは、自分が遠いむかしにおいてきたその世界にもう一度はいりこんで、しかもおとなの技術で、それをとらえたのです。これは、たいへんむずかしいことですが、よい児童文学をうむには、たいせつな条件と思われます。(「プー横丁にたった家 」訳者石井桃子 あとがき)

作家としての良心と自由闊達な豊かさ

A.A.ミルンは、むすこが大きくなってからは、ふたたび子どもの本を書かなかったのは、作家的良心の命じたところのものだと言われている。子どもに対してほんとに向き合うってこんなことかもしれない。こんなふうにふつうに子どもと接していれば、たとえ子どもにはむずかしいことばでも「クマのプーさん」に子どもたちが自由に心をひらいて楽しく遊べるものになる。まちがった言葉使いやスペルも子どもの世界ではあたりまえ。造語だってそう。なんだかよく分からないことだってわかったように話す(大人もそうだけど)。そのまるごとの言葉を使って子どもらはことばを楽しんで話している。言ってしまえば、ページをめくるごとにA.A.ミルンの良心が多くの読者の心をだんだんと開放していくのだ。この<自由闊達な豊かさ>が、A.A.ミルンからのぼくらへの一番の贈り物ではないだろうか。それをぼくらは目の当たりにするわけだ。子どもとおとなの明解な違い。優しさと良心というきびしさ。しかも、A.A.ミルンのお話には善悪を諭すような教訓めいたところがない。まったくない。彼は童話の和みをともないながら、とてもいい感じの<児童文学>というものにしあげたのだ。こんなところにこの「クマのプーさん」というお話しが、世界中のみんなに受け入れられた理由があるのではないかと思う。

さまよう楽しさ

ぼくは、クマのプーさんのお話をさまようように読みながら「ぼく と シェパードさん えがく」地図を見る。見ているうちに彼らの住む森の中に入りこみ、10のエピソードとイラストが生き生きとした情景をかもし出すのを楽しむ。何度も彷徨うことにうれしくなる、これって変かな。でも、事実こどもから大人までもが、"からだも心もふしぎな世界にさまよいこんで、プーたちといっしょに遊べる。"4お話だと世界の多くの読者(50言語5000万部以上)を持っているわけだからぼくだけが変だとはいえない。

E.H.シェパードについて

この本のもう一人の生みの親であるE.H.シェパード5が描いた挿絵はこの<児童文学>にはなくてはならないもの。イラストがないプーさんの本なんてつまらない。「クマのプーさん」の第八章、クリストファー・ロビンが振り返ってみんなに「しーっ」といい、コブタの口を抑えているシーンのリアルさ。草の葉やカラマツの雑木林の写生、ヘリエニシダのスケッチや広大なアッシュダウンの森のスケッチをみると、シェパードは自分の目で観察して絵を描き、物語を現実の世界にねざしたものとして表現することを好んでいたと合点がいく。どんどんいく。「クマのプーさん」が書かれた当時は作家と画家がコラボしテキストと絵を展開するのは非常に稀なことだったことを知ると、さらに「クマのプーさん」の素晴らしさに唸ってしまう。

子どもは絵が大好き 大人も絵が大好き

言葉がわからないから絵で示すというわけではない。子どもは(大人も)ことば以上に絵からわきおこるイマジネーションが大好きだからだ。イラストのイメージが「クマのプーさん」の世界にぴったりだといつもぼくは思う。なので、今回の原画コレクションをベースに企画された作品展はぼくには最良のタイミングだった。

そして先月二月、ついに原画と初めてのご対面。 本の印刷では知ることのできない原画の筆致の素晴らしさが想像以上だったこと。鉛筆画、ペン画、色彩画。原画でたどるプーと仲間たちの名場面の数々がコンパクトに順序だっていたこと。思わず体を乗り出してうれしくなったこと。やっぱり二人のお話しの生みの親が与えてくれた「クマのプーさん」の世界をじかに味わううれしさが一番かな。その原画をもう一度この目に焼き付けたくて今日二度目となった。

こっち側とあっち側 バタン・バタン、バタン・バタン

お話の作りをみると、クリストファー・ロビンは、こっち側の現実の息子であるクリストファー・ロビンと、あっち側のお話しの中のクリストファー・ロビンの二人のクリストファー・ロビンがいる。その現実とお話しとのあいだの架け橋になるのが<階段>である。ぼくの関心は、彼がその階段を降りてくるシーン(階段を昇るシーンもある)。このお話しのポイントとなるところ。これをイラスト原画を見ることができたのが何よりの収穫だった。

「そうら、クマくんが、二階からおりてきますよ。バタン・バタン、バタン・バタン、頭を階段にぶつけながら、クリストファー・ロビンのあとについてね。クマくんは、こんなおりかたっきり知らないのです。」、石井桃子訳『クマのプーさん』第1章、E.H.シェパード、鉛筆画、1926年、V&A所蔵 © The Shepard Trust

このシーンはこっち側のクリストファー・ロビンである。
作者の語りではクマくんはこの降り方しかしらない。どうして、頭を階段に乱暴にぶつけながら降りるのだろう。他のやり方があるではないかと思う。そのことはちゃんと本にも書いてあるだが。それが、原画の鉛筆画をずっとみていると、しごく納得でき、その乱暴にぶつけながら降りるぞんざいさに「この降り方しかない。」と了解して目を細めてしまった。なーるほど。 階段を降りて父親と居るうちにお話しをせがむ息子に応じて「むかし、むかし、大むかし、このまえの金曜日ごろのことなんだがね、クマのプーさんは、森のなかで、ただひとり、サンダースという名のもとに住んでましたとさ。」のお話しが始まりクリストファー・ロビンもあっち側のプーの友だちの クリストファー・ロビンとして登場する。でも、おとぎ話の始まりようだが、そうではないことが読み進めるうちにわかる。お話しはこのまえの金曜日ごろの出来事だということで単なるむかし、むかし、大むかしの架空のことではないことに創作のすごささえ感じてくる。 そうして、、、。 ぬいぐるみのクマが物語のクマのプーさんになり、クリストファー・ロビンも物語の世界の、森のはずれの緑色の戸のある家の住人となっていく。第一章の終わりにまた階段のシーンができきて、あっち側からこっち側のリアルな世界に戻ってくることになる。「わたしたちが、クマのプーやミツバチとお友だちになり、さて、お話がはじまります。」の第一章はこの本全体のイントロになっている。

つまり同じことだね とプーはいいました

クマのプーさん」のお話しの十章の「クリストファー・ロビンがプーの慰労会をひらきます そして、わたしたちは、さよならをいいます」でのプーとコブタの会話が揮ってる。プーはいつもおバカなクマだけど、最後のシーンで印象的なかなか良い科白をA.A.ミルンはプーにいわせた。 慰労会を終え「さよなら」と「ありがとう」いったあとの場面。

それからしばらくして、みんなそろって、「さよなら」と「ありがとう」をいったあとで、コブタとプーは夕方の金色にかがやく光のなかを、かんがえにふけりながら、いっしょに家のほうへむかって歩いていきました。ふたりは、ながいこと、なんにもいいませんでした。
が、とうとう、コブタがいいました。
「プー、きみ、朝おきたときね、まず第一に、どんなこと、かんがえる?」
「けさのごはんは、なににしよ?ってことだな。」と、プーがいいました。「コブタ、きみは、どんなこと?」
「ぼくはね、きょうは、どんなすばらしいことがあるかな、ってことだよ。」
プーはかんがえぶかげにうなずきました。
つまり、おんなじことだね。」と、プーはいいました。

子ども向けの本?純粋に自分が読みたいお話し

もちろん、物語のおもしろさはいっぱいあるが、『クマのプーさん』の魅力は、A.A ミルンが創作した登場するものたちの性格もプーに限らずユニークだ。時として、子どもは大人の常識を飛び越えて大人が見えない森という世界が分かる。でも、そもそも論をいうつもりもないけど、子ども向けの本というものって何?。ミルン自身「子どもが気にいる本を書くことなど、誰にもできない。まずは自分が読みたい本を書くこと」と言っている6

それに、もちろん、ほんとの「さよなら」ではありません。なぜなら、森はいつでもそこにあります‥‥。そして、クマと仲よしのひとなら、だれでもそれを見つけることができるのです。(プー横丁にたった家 A.A. ミルン)

プーさんの原画展の会場を一巡して最後のコーナーでは世界中で出版されている本も見ることが出来たのも貴重だった。 うれしさと楽しさがいっぱいだらけの、クマのプーさんの原画展だった。


  1. 異常>以上 ^_^

  2. E.H.シェパードは1973年に270点以上にもおよぶ貴重な原画や資料をヴィクトリア・アンド・アルバート博物館に寄贈した。

  3. 「ある日、大きな木の前に立ちつくしたミルンの目の前に、ぱっと、プーやフクロやコブタが生きて動きだした瞬間を、私は自分の目で見たように、『魔法の森』を読みながら感じたのです。A.A.ミルンは、プーの本二冊を書きながら、プーたちといっしょに生き、そして、それは、純粋に彼らしい世界であったのだと、私にはおもわれたのです。」岩波少年文庫 クマのプーさん 訳者石井桃子あとがき

  4. クマのプーさん」"からだも心もふしぎな世界にさまよいこんで、プーたちといっしょに遊べたのでした。" 訳者 石井桃子 あとがき

  5. E.H.シェパード

  6. ユーラリア国騒動記