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“だれ一人自分のためにだけ生きている人はいない”

多元的共治と人間尊重

KIYONOBUMIEの(き)さんのエントリーを受けての私のエントリーとお考え願いたい。

1まえおき

いつの間にか世界のイメージが暗い「負」だけになってしまい、明るい「正」の世界のイメージは一体どこにいってしまったのだろうか。いつも昼行灯のような私もやや時事事象に反応を示してる。

今回のムハンマドの風刺画問題は、「表現の自由」と「信仰の尊重」のせめぎあいの問題に収斂されると見るのだが、その事を認めた上で私も「ライシテ」や「宗教と表現」に若干関心を寄せている故、下記のわたしのスタンスから「表現の自由」と「信仰の尊重」の視座としてわたしのこの問題に対するいくつかの雑感を文章にまとめたいと思った。問題の背景と経過は下のブログのTBなどの情報ソースや新聞を前提しているのを先ずお断りしておく。

2私のスタンス

ある表現が公に曝されて人の尊厳を傷つける。自由という名の表現がある時われわれの心を喜びに満たすことがある。だがまたある時自由という名の表現が心を痛く傷つけものする。

先ずわたしのスタンスを明解にしておきたい。もとより自由において信仰と表現は二者択一ではありえないが、現実においては、わたしの姿勢は「信仰の尊重」しながらも「表現の自由」を批判的なものとしていることになる。「表現」と「信仰」は対立概念ではなく、「表現の自由」と「信仰の尊重」を空間を示す量的関係でなく質的関係として定義してみた。よってプライオリティ(優先順位)ということことではなく、「表現の自由」は「信仰の尊重」の機能の質として内包されると云ったらいいだろうか。

3新たな様相も視野に

だが事態の進捗を見るに、ここに及んでまでも「表現の自由」を考えているとしたら、現実はまだまだ溝は深く対立も激しくなるような気がする。それどころかドイツ各州政府の国籍取得テスト検討問題という新た問題も起きてきた。これはムスリム移民問題ということなのか。新たな要素が加わるというよりも対立の本質といえる新たな様相も視野に収めることも確認しておきたい。

4主客が総体である現実世界

ところで、政教分離といえども好むと好まざるとに関わらず、何れにしてもこの現実世界の総体の磁場に常にわれわれは曝されている訳である。というのもあらゆる現実世界回路の場を経てこそ様々な人間性の意義と精神性が充足さうるというあらゆる人間活動の本質がここに常に付きまとうからだ。われわれは日頃様々な選択肢(例えば:やる、やらない、あるいはどちらでもない)をもっていても、あることに対して現実には人間は一つの行為しかなし得ないのだから。それがわれわれの実体である。「表現の自由」と「信仰の尊重」が主客の分ちがたい一つの総体である現実を認めなければいけない。このことは何ら政教分離ということに決して矛盾することではない。

5イメージされる二つの世界

さて風刺画掲載で一つ気づくことは、各イスラム諸国でムスリムすべてではないことだが、ある一部の強迫抗議や暴動まがいの政治性が全体に強いまとまった「イスラム世界」としてのイメージとして映り、しかし一方ヨーロッパ世界のイメージはどうかというと、個々のマスコミが表現の自由の下に風刺画像を転載しているという後ろめたい感じがあって、分散した不健康な弱いイメージしか浮かばない。何やら私たちまでが「負」の階段をまっしぐらに落ちてく暗澹たる「負」のイメージ図式にはまっている錯覚になっていく。

だが少し丹念に見てみるとこれは情緒的イメージだけでなく今回風刺画の本質におけるきわめて表象における「表現の自由」と「信仰の尊重」の感覚の実体なのではないか。質的差異が量的差異に解釈される。というのも、風刺画掲載が表現という名において「信仰の尊厳」を傷つける<質>が彼らの<量>に解釈され、「表現の自由」の質に投げ帰される。そしてその投げ帰された「表現の自由」の<質>が「表現の自由」の<質>に変換される。結果の質が原因の量に結合する。観念を感覚の中に、原因の量を結果の質に置き入れるようになるのだろう。このように表象的感覚において<質>の数値であるものが<量>の数値に翻訳し変換され変容することはわれわれ実体世界よく見られることである。

6現実世界での有効性

では風刺画問題の「信仰の尊厳」と「表現の自由」の関連を見るにつけて、<質>と<量>のこの差異の結合する現実世界においては、イスラム世界かマスコミを含むヨーロッパ世界のどちらが現実世界での有効性を持ち得るのだろうか。わたしはヨーロッパ世界に対しては悲観的な見方をしている。というのも、ヨーロッパ各紙が主張する自らの法の下における報道の自由表現の自由が果たしてどんな形で自らの「表現の自由」の〈質〉をマスコミが自らのゴール結果の現実である「表現の自由」の<量>として想定しているのか?がわたしには後にも先にも全く見えてこないからだ。
その点イスラム世界の主張と要求は「信仰の尊厳」の〈質〉が風刺画掲載の釈明と謝罪という分かりやすさ「信仰の尊厳」<量>の目標のイメージが見えてくる。この明解さは政治論として組み込みやすく本質論よりずっと有効であると思われる。やはり現実世界では明解な目的と目標がある方が成功の確率が高いということが実証されるのだろうか。

更に思うに、果たしてユランズ・ポステン紙には風刺画掲載の時点から風刺に表現の自由の展望はあったのだろうか考えてみる。風刺画の目的が「侮蔑」と「嘲り」以外は見えてこないのは私の主観としても、世界には平和なムスリムの方が大多数というのに目もくれずに、ユランズ・ポステン紙が「侮蔑」と「嘲り」をカードを一挙に出してしまったのは不思議でならない。それも間抜けなことにもう相手に自分のすべて手の内を見せてしまったとは。すごい相手を相手にしまったという自分の政治的無策無能の証明ということだ。後になって「表現の自由」だなんて飛んでもない言い訳ということでなく、ここには確信犯の憶測さえ想像してしまうのは私だけだろうか。実際これはただの私の憶測の何ものでもない。

7多元的共治と人間尊重と喜び

表現の自由」と「信仰の尊重」を語るのに、卑近にも競馬の予想をするように国際政治の時事談義をからめて言いたいのではない。イスラム移民問題が取りざたされている昨今、まさにヨーロッパ型の「表現の自由」と「信仰の尊重」ではなく、ここに及んでヨーロッパだけでなく従来の世界自体が多元的共治と人間尊重と通して新たな「表現の自由」と「信仰の尊重」の道を模索しなければならない時期にさしかかっていることもずっと前から云われていたことである。従来の旧態価値のままでは、ムスリム移民問題はじめがあらゆる世界各地の深い確執は悲観的な見方になっていくのだろう。手をこまねている訳にはいかない。

だが果たしてもうカードは出尽きてしまったのだろうか。万策尽き果てたのであろうか。そうとも云えないのではないか。これからなし得るのは風刺がいわば侮蔑と嘲りという「負」の表現ではなく、喜びや楽しみという「正」というかと呼んでいいポジティブな表現カードがあるという考えは楽観的だろうか。憎しみを憎しみでなく、人間性の明るい「表現の自由」を何故ヨーロッパ・マスコミは取り組もうとしないのだろうか。

8政治戦術とガバナンスとポリティカリーコレクト

イスラム世界とて一枚岩ではないことも当然であるが、現実世界での実行性を見てきても、わたしはイスラム世界に有利であるとみるのだが。ガバナンス(Governance)、つまり他者との「共治」ということがあるだが、これ自体今のイスラム世界に対するガバナンスがマスコミを含むヨーロッパ世界には何故か全く欠落しているのは何故か。

またあるいはアメリカでは既に色褪せつつあるポリティカリーコレクト(政治的正しさ)ということがあるが、これにしたってある政治的戦術である。そのようなに他者との関わる政治性がヨーロッパのマスコミには見うけられないのは何故だろうか? 

ライス国務長官はイラン、シリアがイスラム教徒を煽っていると批判したらしいが、まだアメリカ世界は静観しているように見えている。やはり世界に一番影響をもつアメリカを見るとまた世界の動きが明らかにされてくる。アメリカは本質論だけで物事をいうことはやりはしない。何れアメリカの目論見が露わになるだろう。

私の意見はややヨーロッパに対して辛口のコメントになったが、しかし政治のことも私にはよく分からない。要はもう少しヨーロッパが大人の態度を示すべきではないだろうか。今のままではヨーロッパには、ただ「あいつは気にくわないと」というの幼児性が異文化に対する軽視として現れたとしかわたしには見えないのだが。無論侮辱と嘲りがあったにしても加害者への暴力はゆるされない。私たちにとって急がなければいけなことは、ヨーロッパの轍を踏まないためにも、多元的共治と人間尊重と通して新たな「表現の自由」と「信仰の尊重」の道を歩まねばなるまいということを最後に確認しながら私の感想を終えたい。何により事件の収束と沈静化が望まれる。あらためて自分の『自由においての信仰と表現』のスタンスを見つめ直す機会になればよいと思う。