Emmausブログ

人は見ね/人こそ知らね/ありなしの/われは匂ひぞ/風のもて来し

2005-05-01から1ヶ月間の記事一覧

命の霊

わたしたちは霊によって新たにされる わたしたち ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は、眼に立つように来るものではない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。神の国は実に、あ…

創造行為の襞

ヒンデミットがバッハ(ヨハン・セバッシャン)のことを「完璧から来る憂鬱」と言ったのだが、そのことをまた森有正も共感するようにどこかのエッセーに書き記していた。そうしていろいろ記述を探していたら出てきた。備忘のために森の訳を書き記しておく。 …

聖霊

聖霊来てください。あなたの光の輝きで、わたしたちを照らしてください。貧しい人の父、心の光、証しの力を注ぐ方。やさしい心の友、さわやかな憩い、揺るぐことのないよりどころ。苦しむときの励まし、あつさのやすらい、憂いのときの慰め。恵みあふれる光…

清貧=時間性

だけど、むろん本来ありうる人の「善さ」といったところで、それが自らから出るものではない・・・ということは、人の中であるいは自然の中でよく額に汗し体を動かして「働く」ということと、それに伴う時間の中でそのほんとうの確かさをボクらに示してくれ…

美しさ

空を仰ぐ。抜けるような空の青。美しさは指し示す一つの指標と考えるなら、善さといっても云い。

一緒に在る

〜森有正「流れのほとりにて」から〜 人間が美しい人格とともに、避けることのできない欠点や暗さを終わりまでもちつづけることは、それ自体偉大なことではないだろうか。これも亦その人間そのものの姿なのだから。私の存在が示す、僕にとって、もっとも大切…

解かれる憐れみ

不幸 飢えて死に瀕する、その路傍に横たわる不幸な人間。神は慈悲(Misericorde)を抱くが、パンを送りとどけることはできない。その場に居合わせるわたしはさいわいにも神でない。わたしは一片のパンを与えることができる。これが神にたいするわたしの唯一…

 道

行う イエスはいう。「私の教えは私のものではなく、私を遣わされたお方の教えである」と。「そのみ旨を行おうと望む者は、私の教えが神ものか、あるいは私自身が話しているのかをしるだろう」と。ヨハネ 7:16-17 その机をボクは鉛筆で行おう(なぞる)とす…

なぞる招き

ボクが呼ぶのか。あなた「あの方」が呼ぶのか。それは分からない。 眼を閉じて鉛筆の先で机をなぞってみてごらん ボクと鉛筆 ボクの躰につたわる鉛筆 ボクらのために果たす鉛筆 そうさボク自身の有り様でないのだ そうして ボクらのためにでなくそのボクらを…