Emmausブログ

人は見ね/人こそ知らね/ありなしの/われは匂ひぞ/風のもて来し

2005-01-01から1ヶ月間の記事一覧

「伝説」会田綱雄

湖から 蟹が這いあがつてくると わたくしたちはそれを縄にくくりつけ 山をこえて 市場の 石ころだらけの道に立つ蟹を食うひともあるのだ縄につるされ 毛の生えた十本の脚で 空を掻きむしりながら 蟹は銭になり わたくしたちはひとにぎりの米と塩を買い 山を…

魂の階層

魂の生において[・・・]「階層」の観念ほど重要なものはない。最上層部では真であっても下層部では偽りである。その逆もある。よって、最上層部の秘奥においてのみ、神への愛と隣人愛は同一なのである。より下層に位置する意識の次元では、神への真正な愛は…

魂の照応

一人の人間が、その人の魂で素直に自然と照応する時、そこに他の誰も真似をすることのできない創造が生まれるのだ。僕たちはそれを重んじなければいけない。そしてその創造されたものは自然に根を下ろしながら、それを高くこえて、人間の魂のヴィジオンにま…

プロメテ

《プロメテ》 シモーヌ・ヴェイユ孤独の獰猛なけだものが、 腹の中で絶え間なくその身を責めさいなむもののために、むしばまれ、 疲労にふるえながら走り回っている、 死によってしか逃れられない飢えから逃れようとして。 そのけだものは暗い森を横切って食…

ほんとうとまちがい

私には、キリスト教をほんとうだと信じることによってまちがうよりも、まちがった上で、キリスト教がほんとうであることを発見するほうが、ずっと恐ろしいだろう。パスカル「パンセ」241

二重の無限性

マキシマムにおける無限性とミニマムにおける無限性事物の周囲をつつむよりは、その中心へ達するほうがはるかに可能だと、われわれはおのずと考えている。世界の目に見える広がり(大きいもの)は、目に見えてわれわれを超越する。しかし、小さいものは、そ…

神と必然/シモーヌ・ヴェイユ

これだけはいえます。わたしはこれまで一度たりとも、いかなる瞬間においても、神を探し求めたことはないと。おそらくはそのせいで、もちろんあまりに主観的といえばそれまですが、神を探し求めるという表現は好きではなく、あまつさえまちがった表現である…

実存遂行と内省

この入門(「キリスト教とは何か」)は、事柄の性格から見て、一つの実験である。・・・これはキリスト者であり、キリスト者たらんとする者にとって、決して恣意的な神学的な諸問題ではない。ここでは、自分自身の存在の全体がかかっているのである。これは…

救いにおける人間の主体

「救い」の理解のための神学的かつ人間論的な出発点 すでに述べたように、人間は自由な主体として自分自身に責任を負うものである。また、人間は自分の本来的な自由行為、原初的に唯一の自由行為、自分の人間的実存全体にかかわる自由行為の対象として、自分…

旅程の横断

わたしたちは時間と空間の無限の厚みを横断せねばならない。だが、まずは神がわたしたちのものに来るために横断する。まず一歩をふみだすのは神なのだ。このとき、愛は、もし可能ならば、さらに大きくなる。愛は乗りこえるべき隔たりの大きさに対応する。・…

時間

時間とは人間にとってもっとも深刻かつ悲劇的な気がかりである。唯一の悲劇的な気がかりといってもよい。想像しうる悲劇のすべては、時間の経過という唯一無二の悲劇へと逢着する。時間はまたあらゆる隷属性の源泉である。パスカルが深く感じとっていたよう…

ミセレーレ

ジョルジュ・ルオーの版画「ミセレーレ(MISERERE)」作品[01]「神よ、わたしを憐れんでください、御慈しみをもって」と題された版画集の冒頭には「MISERERE」が刻印されている。 この版画「ミセレーレ」はルオー40歳代前半〜56歳に至る15年間にわたり制作さ…

考える葦

人間はひとくきの葦にすぎない。自然のなかで最も弱いものである。だが、それは考える葦である。彼をおしつぶすために、宇宙全体が武装するに及ばない。蒸気や一滴の水でも彼を殺すのに十分である。だが、たとい宇宙が彼をおしつぶしても、人間は彼を殺すも…