emmaus.hatenablog.jp

“だれ一人自分のためにだけ生きる人はいない”

あることの讃歌-火は石の中に眠っている-

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汝<Thou>に出会う
わたしたちが道を歩いていて、向こうからこちらに歩いて来たひとりの人に出会うとき、わたしたちが知っているのはわたしたちの歩いて来た道のりだけであって、相手の歩いて来た道のりではない。ただわたしたちがその相手と出会うときにだけ、彼の道のりに身をもって触れるのである。-『我と汝』マルティン・ブーバー-
 
秋が深まっている。朝未だき、葉を落とした森を散歩していると草叢がある部分だけ逆光に映えていた。そこに惹かれつつ足元が濡れるまま草叢に分け入ると、草の葉の表面には大小の水玉が列なり、一つひとつの粒には小さな太陽が写し出されていた。偶然なナイーブな光景に出くわした。がしかし、これが予め定められた光景の必然の確かさと同時にわたしが安らぎを素直に感じたのはなぜだろう。
 それは未知の対象を知ったことより、自分の中に他に代えられない新たな固有の感覚を得たという喜びの体験に近かったからか。
 
自分の欠けたものを他のもので埋めることはできない。かつてあったものを失ったことではなく、今あることの意味の大きさに気づいたからだろうか。葉を落とした森で草叢に光が今までよりも注いでいるのを見る度、ともかく生きることの深さ、あることの確かさ。今生かされていることの深さをからだで感じているこの僕がいた。火は石の中に眠っていた。出会いとは自分の中の新たな発見であるのだ。
昼には消えゆく朝の露の光景であり、決して強烈ではなくむしろ淡い静かな出来事だったことを追記しておかねばならない。
 
以前と場所も風景の方も何も変わっていないのに、今日の出来事はこちからが生きることや健康とかの対象にしがみ付くことをせず僕のなかで緩やかで自ずと生じた変化だった。
からだはイマイチで辛いこともあるのだが、気分は上々、楽な立ち位置で仕事に取り組んでいる僕がいる。これは思い込みではない、からだ全体で感じる不思議な恵みの確かさである。
 

鷺とブルックナー - emmaus.hatenablog.jpの光景を思い出した。

 しかし、今日はハイドンとフローベルガーを聴いている。

アンドレアス・シュタイアー Piano Sonata in C major, H. 16/48: Andante con espressione

Joseph Haydn: Sonatas

Joseph Haydn: Sonatas

  • アンドレアス・シュタイアー
  • クラシック
  • ¥3500

 Johann Jakob Froberger

"... Pour passer la mélancolie"

  • アンドレアス・シュタイアー
  • クラシック
  • ¥1650

 

ケアセンタリングを学ぶ 自分流の寄り添い方

料理に魔法や手品の極意はないのと同じく介護にも魔法のような極意はない。介護について、自分が知っていること-これが世界だと思っている事柄-を詳細に調べると、自分の知る世界とこの現実世界が乖離していると分かった。もう一度この世界を眺め直してみるべきだ。

それにはいままでの自分のケアリングを学び解すこと。センタリング(介護者が精神を集中する)を維持するには、自分にしかできないケアリングのメソッドをつくることだ。

介護の仕事も11年を過ぎた。さまざまな経験と学習を積んだが、今一度初心に返ろうと思って、「認知症でも伝わる会話術」公開講座に参加した。

バリデーションvalidation療法。認知症の人を「その人の経験や感情を確かなものと認め、共感し、力づける」ことなのだが、一口に傾聴受容共感といっても介護現場ではベッド移動など体力がいる仕事で既に若くもなく力のある者ではないので、自分にはいかにこのハイテクニックを現場で実行するのかが喫緊の課題だったからだ。

たとえば、認知症の方にイエスノーの会話ではなく、会話の具体的なオープンクエスチョン(開かれた質問をする)でその方の経験や歴史で培ったその人そのものを受容できる信頼を継続できる会話。それによってまずはセンタリング(介護者に寄り添う集中)ができそうだ。力ではなくより良いケアが維持できるそうだと感じた意義ある講座だった。

自分なりの肩の力を抜いた、自分流のバリデーション療法を修得出来ればと思う。この介護という仕事に就いてよかったと思える。

きめて、始めてわかったこと - emmaus.hatenablog.jp

 

 

 

マーカス・ロバーツというピアニスト

今を上書きしていくSNS。その今という一部分の集まりが全体にみえるのは概ね早とちりか錯覚ではないか。性急に答えを迫るわりに明日はもう忘れ去られる。時を経ることを無用とする世界は不幸だとさえ言える。一方、行きつ戻りつの思考のあり方。やはり、ブログはいいなと思うのは、はてなブログ再開五カ月の感想である。

それで今日のお題は、その今は昔(1990年頃)のジャズの話。音楽は時の出会いであり人の出会いである。トランペッターのウィルトン ・マルサリスのバンドにマーカス・ロバーツというピアニストが彗星の如く現れた。その時、彼はたぶん25歳くらだったろう。「The very thought of you」で、短いピアノ・ソロだったが、過剰な表現はなく控えめながらも粒立ちの良い音色で、一音一音の清冽さが円やかさに注ぎ込まれるという有様だった。リーダーのマルサリスの大らかで抑制された音に遜色なく嵌るあたりは若さの割には懐が深いという好印象だった。それを機に彼のファンになっていった。その後数年経って小澤征爾のサイトウキネン・オーケストラでガーシュウィンなどの共演していた。しかし、本命のラプソディ・イン・ブルーの小澤のどこか啓蒙志向よりも、マーカス・ロバーツのコール・アフター・ミッドナイトの方が格段に音楽の本質を表していて面白かったのは対照的だった。

確かに、彼の世代の音楽スタイルは、すでにクロスオーバーやフィージョン以降であって保守的でオーソドックな旧態然のスタイルである。まあこれは佳しとしよう。ジャンルの枠を超えクラシック音楽等とのコラボも多い。これも佳しとしよう。だが、ウィルトン ・マルサリスにしてもそうだがやはり、ジャズとクラシックはぼくには違うものとして区別して置きたい。ジャズの本質である自由さを損なってまでも、それを耐えてジャズ音楽とクラッシック音楽を融合してやる必要も聴く必要もないというのが、僕なりの切り口である。
音楽の受けとめ方はだれも自由だが、いまでもぼくはあの「The very thought of you」のアドリブが彼の本質であり全体だと思っている。まさに、全体は部分の寄せ集めではないという証しではないか。これからの歳月の中で、行きつ戻りつ僕に彼の音楽がどう映ってゆくだろうか楽しみである。

その1990年頃当時のウィルトン ・マルサリスのバンドのマーカス・ロバーツの音源があったので載せておく。

https://www.dropbox.com/s/on7c2ewxa3j6fvf/theVeryThougtOfYou.mp3?dl=0