emmaus.hatenablog.jp

“だれ一人自分のためにだけ生きている人はいない”

えんどう豆のさやを剥きながら

梅雨にしては晴れ間が続いている。友人らと音楽の話しをしていた。どういう話の流れだっただろうか、「人生の最後に聴きたい曲は何か」という話題に行き着いた。人生の最後という言葉が日常を超えたフレームとして際立っていたが、居合わせたものはそれぞれの思いで自由に話をしていた。それはそれでなるほどだと感心しながらそれらの話をぼくも聞いていた。

さて、ぼくにおはちが回ってきた。ものごとには確かに始めがあれば終わりはあるのだが、ちかごろのぼくはとりたてて末期を意識することもなく、ごくふつうに楽観も悲観もなく<今のこの時が最後>と思うようになってきている。これはやはり、患いついた為だろう。だから、今の時をあえて度返しにして「人生の最後に聴きたい曲」といっても、今聴きたい曲が謂わば最後に聴きたい曲だということになる。
たとえていうと、死ぬ前に最後に食べたいものはと聞かれても、今食べたいものがそれに他ならないと、同じことだ。それがえんどう豆の一粒だとしても、それが最後に食べたいものだともいって言いのだ。春の旬を極める筍の味は言葉にならないほどうまくぼくの好物の一つだが、特別にあえて人生最後のものではなくても後悔することはないだろう。むしろその時々の成り行きで構わない。今日の夕飯のえんどう豆ご飯の下準備の一つひとつ豆の鞘剥きに余念がないが、ともかく、えんどう豆はぼくにとって何かの縁だったのだろう。

まださいわい、仕事も現役で終活など程遠い。また普段、欲がまったくないわけではない。欲しいもの、行きたいところもある。

で、因みにこの以前に聴いていたものは、リヒテルハイドン16番。ペルゴレージスターバト・マーテル。パオロ・パンドルフオのチェロ。ウィリアム・バードのファンタジアだった。印象的だったのがバードのファンタジアだったので、若干のことわりを入れて、みんなにレオンハルトのバードのファンタジアにまつわる話をすることになった。

ある友人は旅先のケルンでのモーツァルトドン・ジョバンニの思い出話を語ってくれた。また他の友人は宮沢賢治のなめとこ山の熊と薩摩琵琶の弾き語りを話してくれた。

ぼくには、最後に聴きたいという思い入れはほとんどないが、しかし、友人らの話しはそれなりに意義深いものがあった。人生は味わうに足ると確信した。

梅雨の晴れ間、明日は近くの山にアジサイを見に行こうかと考えている。

これもありだね 音楽ののりしろ

三日前の夜だったか、ふとiTunesコントロールを開いて、シャッフル・オンにし、リピートをすべてにした。シャッフルだから普段は聴かない曲がながれてきたが、しかし、これらはかつて一つひとつ自分がダウンロードした曲だ。謂わば、偶然は必然の結果だということなんだね。それぞれに思い出のある曲だがやけにどれも新鮮だった。たまにシャッフルしてみるのも良い。思ってもみない音楽の歓びに辿りつけるかもしれない。

ミュージシャンは

思いつくままに印象を書いてみよう。

さて一曲目はカトリーヌ・コラールのシューマンのピアノ・ソナタ。1974年の録音。1974年この時ぼくは何をしていたのだろう。むろんカトリーヌ・コラールは知らなかった。音楽の録音会社でバイトをしていたのだろう。アシュケナージショパンエチュードが発売されたころだろうか。
カトリーヌ・コラールというピアニストはハイドンのような古典派でもロマン派でもなっとくできる表現をもち合わせている演奏家で、自分の一つを譲ることのできる叙情とでも言ったらいいのだろうか、晩年にはナタリー・シュトゥッツマンの伴奏ピアニストとしてその地位にいただけはあるのだと思う。素晴らしい内省的なピアノの感性だ。

Piano Sonata No. 2 in G Minor, Op. 22: II. Andantino

Piano Sonata No. 2 in G Minor, Op. 22: II. Andantino

  • Catherine Collard
  • クラシック
  • ¥250

シャッフルの二番目は、ジャズののノラ・ジョーンズのCome Away With Me 甘い恋歌。女性がCome Away With Meというのだ。へえーといった感じ。唄だけの世界に留めておくべきだ。(笑)この手の誘惑は何度も聴くと嫌気がさす。

Come Away With Me

Come Away With Me

三番目には、モーリス・ラベルのピアノ三重奏曲。パスキエ/ピドゥ/ぺヌティエ。これは昔からよく聴いたなじみの曲。今も聴く。

Piano Trio, M. 67: I. Modéré

Piano Trio, M. 67: I. Modéré

  • ジャン=クロード・ペンティエ, Regis Pasquier & Roland Pidoux
  • クラシック
  • ¥250

4番目はBill Evans TrioのHow Deep Is The Ocean 。なんとも知的な音楽だこと。でも、あたまだけの音楽でない、ハートがある。

How Deep Is the Ocean

How Deep Is the Ocean

5番目はグレン・グールドモーツァルトのピアノ・ソナタNo2。良い。

最後の6番目は、シュ・シャオメイのバッハのゴルドベルク変奏曲。一度機会があれば生の演奏を聞いてみたいピアニストだ。

Variations Goldberg, BWV 988: Aria

Variations Goldberg, BWV 988: Aria

  • Zhu Xiao-Mei
  • クラシック
  • ¥200

さて、このシャッフルをリピートして何度も聴くと、その印象がさらに増幅されてくるのが面白い。

イクラと雲丹とモーツァルト

手をついて見よとや露の石ぼとけ (安東次男)

音と音楽の追想

河岸を歩いてみた。水が少ない。とどこおることない川瀬の音。その音が遠く対岸を過ぎ行く車の音に重なる。 道が河岸から逸れたので草叢に入る。一歩ごと草をかき分ける音がかえって静けさをましてゆく。その瞬間、三羽の鳥が飛び立った。 川音や草に触れ合う音、鳥の羽ばたき。過ぎ去る音を追想する。自然の音、それはそれで心地よかった。

また、河岸の道に出た。もう空には鳥はいない。 たとえ偏った戯れであっても、人の技によって作られ組み立てられた音。その音楽を追想してみる。それはそれでまた悪くはなかった。

ぼくの音センサー

ぼくは家でCDを聴いても、コンサートで生演奏を聴いても、街角でちょっとした音楽を耳にしても、ジャンルやソースを問わず良くも悪くもその音をその場の肌理1で捉えてしまうことが多い。今という大きな部屋に散りばめられた音楽の体験っていうのか。その肌理が快いならば、ぼくにはその音楽はオーケーだ。これは、音楽の動線とし自分が演奏の送り手の場合も同じことだ。

度はずれた音楽にセンサーが不調

ヴォルフガング・アマデウスモーツァルトという音楽家がいる。作曲家というよりもやはり音楽に専念した人だ。この方の音楽にぼくのセンサーがある時うまく動かなくなってしまった。他の音楽ではちゃんと反応しているのだが、どうしてモーツァルトだけなんだろうか。 かつてはぼくが若い頃はモーツァルトはそれなりに楽しめたというのに。井上直幸のソナタグレン・グールドピアノソナタ第11番もよく聴いた。カール・ベーム。好んで親しんだ。だがやはり、どこか彼の音楽は、今にして思えばやはり《度はずれた》音楽という印象だった。

驚異と静穏

このグールド以降、モーツァルトの音楽はその音楽の肌理をぼくには露わにしてくれないことが起き出した。所与のものがすり抜けていって「驚異と静隠の状態」が果てしなくつくり上げられるのに呆然とした。 そして、ある時からモーツァルトに対して強さと怖さの二つのこわさを感じるようになっていった。どうしてこうもモーツァルトと相性が悪くなったかわからない。相性というのも紙一重。素晴らしすぎて合わないのだということも言えるのか。こちらが素直な構えでいればいいと思い、 カール・バルトや遠山一行、吉田秀和、クリストフ・ヴォルフも読み漁ってはみたが、ぼくのセンサーはそのような処方では立ち直らなかった。主題や目的に関わらず、結局味わうのは自分の感覚であり自分の中に呼び起こされるものがあるということだった。今回の場合は他人のモーツァルト観など参考にはならないことを確認するだけだった。自分の意見を明確にするだけだった。

遠ざかる

恐れは喜びと同じく緊張を強いる。喜びには不安はない。ともかくどうしても不安がつきまとう。その不安は不快さに行き着く。そこまでしてモーツァルトの音楽を聴く必要はないと思った。寿司を食べに行くのにイクラと雲丹が苦手ならそれを避ければいいだけの話しと同じことで、ぼくは《度はずれた》音楽家モーツァルトからそのまま遠ざかることにした。寿司ネタをモーツァルトに例えるとは。世にきくモーツァルト愛好家、イクラと雲丹の好事家の方々を疎む気持ちは毛頭ないので悪しからず。

あの音楽がヒーリングって何

それが、先日医者の待合室でモーツァルトの曲が立て続けに流れたのだ。次のときもまたモーツァルトだった。旧聞だが医者の待合室でのバッグミュージックではモーツァルトが上位を占めてヒーリング効果が抜群だということだ。 忘れていた遠ざかっていたことを思い出したのでここにモーツァルトについて少し書いてみた。これは、いわば主張ではなく告白である。

作曲家であろうが、演奏家であれ、聴き手であれ、音楽は内から来るという。 音楽の起源は人間の中にあるというなら、その相性の悪さは自分の中にあるのだろうか。

離れていてもモーツァルトを聴いている

「音楽はいつでもそこにあります。」といった友がいた。 また、もう一人の音楽の友だちである、中山(id:taknakayama)さんはこう言った。「若い頃は、モーツァルト交響曲ピアノ曲を好んで聴きましたが、今はほとんど聴きません。でも、なんというか、常に聴いているような感じがあります。」と。 とても印象深いことばだ。 まさに、記憶の中の音楽であっても今の自分を支えているのだ。音楽が身近にあるというのは、遠く直に音に触れなくとも自分の中に鳴り響く音楽があるということ。たしかにそうだ。

また、いつの日か、モーツァルトを素直に受け入れる日が来るのだろうか。


  1. あらゆる感覚による目には見えない雰囲気