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“だれ一人自分のためにだけ生きている人はいない”

貫かれた記憶

知られるということ

前日の聖書朗読 マルコ福音書 1:40-45

MAR01:40 さて、らい病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。 MAR01:41 イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、 MAR01:42 たちまちらい病は去り、その人は清くなった。 MAR01:43 イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して、 MAR01:44 言われた。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。」

ボクらがいる。イエスがいる。ストレートな関わり。〈私〉というものがイエスに知られるということの直裁な体験。ある物語の出来事の不思議さというよりもただそうであったという出来事。粗筋だけが担っている物語の意味性。貫かれたメッセージだけが述べ伝えられる。信仰の証しというよりもイエスに貫かれた記憶のクレド。マルコは何かを急ぐようにボクらに伝える。信じることそのものを。

信じるということ

聖書朗読の続き マルコ福音書 2:1-12

MAR02:01 数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、 MAR02:02 大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。イエスが御言葉を語っておられると、 MAR02:03 四人の男が中風の人を運んで来た。 MAR02:04 しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。 MAR02:05 イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。 MAR02:06 ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。 MAR02:07 「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」 MAR02:08 イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。 MAR02:09 中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。 MAR02:10 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に言われた。 MAR02:11 「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」 MAR02:12 その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した。

その人たちの信仰を見て「罪は赦される」とイエス言う。病を厭う思いがある。だが願って祈って病の救いを求めたのだろうか。イエスはここでも直裁である。 「あなたの罪が赦されること」と「起きて床を担で歩くこと」のどちらが容易いのかを問う。神の権能をボクらに知らす。ボクらに与えられたこと。イエスによって云われたこと、「起きて床を担ぎなさい」と。赦す主に開いてイエスはボクらに言う。信じることのみを伝える。信じることに内包されていることを。それを解きほぐして救いを「赦し」としてボクらに与える。救いの問い・カール・ラーナー - Emmaus’