Emmausブログ

人は見ね/人こそ知らね/ありなしの/われは匂ひぞ/風のもて来し

幸いと喜び

幸いと喜びは同じところにあるようでそうではない。
戸外の明るさにさそわれて久しぶり長めのジョグ(走り)に出かけた。林の下草は緑も斑だが沿道に続いる。思わぬことに途中で小川の河床に一羽のコサギ*1がいるのに出くわした。コサギが群れから抜け出たというのは春到来のしるしだ。全長は70センチはあっただろう、黒い足に指の黄色が印象的だった。直ぐに大きく白の翼を広げ川面を滑るように飛んでいった。視界から消えた後も胸のすく思い?はしばらく消えなかった。
やはり長い走りで喉が渇いて、この際何たって水がうまいのが一番だ。腹も減って飯もいける。コサギの一件もあってか、もう夕餉の前からすでに味わうことのお膳立てがおのれの中ですっかり出来ているのだ。そのようにある種いくつかの情動があって、その情動は次のある運動によって解消される。この場合は花より団子!の食事によって解消されるという訳だ。あるいはそこから思惟を伴うと、あるいくつかの情感へ導かれるのが・・・、ただモクモク食べに食べて「情」の動きだけの佳さを堪能した。

そうは云っても、走ることや見ること出会うことは、喜びだけでないのが正直なところだと少し冷静になってみる。生命の自己保持はどうやらこの種の恐れの方が喜びよりも優先して自己を制御するのかも知れない。情動から情感を形づくる道筋では、身体外部からの刺激やプレッシャーを含めておのれの記憶や想像が大きく担っていると云ったのは哲学者のスピノザだと思う。そのように一方で情動が情感を支配してはいるものの、他方でそれに勝ってなお意志的にネガティブをポジティブに変換できるのも人間のボクらだと云える。 とやや「情」を抑え「意」を主だって考えた。

だが人が語る概念や言葉などは如何ほどでもない。「彼らの行いを見よ」というのが現実だろう。ともかく机上のことではなく実際は、いくつかの情動がうごめいている時には恐れさえも確かに動くのだろう。その時に意志は働かず、自らのシャッターを下ろすことにもなる。だから先の話のように、仮にその喜びが思惟を伴わずにある種の情感や情緒とならずに、また感性の記憶も形成されないなら更にその先の意志や精神に届くこともない。そのように恐れに対して自己保持によって喜びのシャッターを下ろしておのれの部屋のずっと奥に居るとしたら、身を横たえるにしても目覚めるにしても、さてどのようにして人は次ぎに好いことのノックの音が分かるというのだろうか。微かなノックもあったかも知れない。その音の大きさとて誰が知るというのだろうか。だが肝心なのは今でも喜びを望んでいるということだ。

確かに現実は様々ことが混淆している。しからば走ることや見ること出会うこと等は喜びだけを味わおうとするのだろうか。そうでもない。それにも関わらず、平静な意志というか落ち着いた気持ちを続けていると、その辛さにも厭になることがないのは何故だろう。何かいっとう始から、逡巡し留まるような、つまりためらう気持ちが全くないというのは、実に不思議だと云っていい。また気持ちが和んでいる時はいつも新鮮で、まさに移ろう気怠さというものが見あたらない。未だはっきり決まった結果でもなく、憂愁な結末としての一抹の予断は内容の他の条件を満たした訳でもないのだから、せっかく訪れるチャンスを反故にしまうのは冷静に見て余りにも残念だ。 と「情」を顧みず現実を対象化しておのれの行き方を探っては「知」なるものを尊んでもみる。

だが、こうも云える。情緒や感性が対象(客体)によって決められるように思って、また情動をすべて、何らかの知的表象が感受性のうちに起きたと考えるのは主知主義の過剰だということも。それにして「情」や「意」や「知」のデベートを重ねても円環を辿るように時間はさらに経ってゆく。言葉は明らかにボクらを強く確かなものとしてくれるが、過度な語らいは朝露のように、その言葉の粒は日が昇るに従って空に消えてゆく。必要以上の概念が一層何か人間への不信と人の不在とに共鳴しあっていく。それが虚しくなるというよりも人が概念というかアタマに諂うことにさえ見えてきて、それらの内に節度は見あたらずに現実を直視しない不安だけがつのることさえ禁じえない。

言葉の循環する危うさから抜けだしてやはりもっと平易にありたい。妙案に拘るよりただ悪意を棄てて誠意をもって生む方がずっと現実的だし容易でもある。たとえ結果は上手く走れなくとも、あるいは違う話でいうと、マズいコーヒーを呑んだり、またあまり人に薦められないような味のワインがもう一度注がれたにしても、それからもっと深刻な痛手を負ったにしても、それよりもどこかにきっと何か楽しさがあり好いことがあると思ってると、意外なところから良いものが見つかってくることはよくある。これは自らの感性や思考で人の制御も働くのだと云っていいのだろうが、そんなに峻別することでもない。時に思わぬ雨さえよいことがあると云った方がいいのかも知れない。

そのように喜びには何より幸いという下敷きが必要だが、といって逆に幸いは決して喜びそのものをその下敷きにしている訳でもない。生きることにおいては喜びもなく苦しくとも幸いは確かにありうるということを、よくわきまえておかねばならない。でそれはそうとしても、兎も角前向きに「ハイ」という肯定があって、端っから「イイエ」という否定がないようにしてみる。この賛成は善さに対しての良識であって、すべてに対してではないのは云うまでもない。すると今いる此処のところに新しい空気が満ちてきて、決して派手ではないがまわりの景色も鮮やかな彩に縁取られているのが分かって嬉しい。理屈ではない、やってみるとよく分かる。幸いと喜びは同じところにないが、善さというものがその両方のどちらかにあると云ってもいい。もしその両方のどちらにも善さがないのなら、それは喜びでも幸いでもないものだと云って差し支えない。やはり、善さへの意志の勇気ということが人の中心になってくると思う。

つまりモラルの発生を情動の発生に結んだとしても、知は必要であるし、意にも支えても貰わなければならない。それぞれの論理を放擲した訳でもない。そして最後に、「善さの意志」と云ったところで、ただ一種の感性というか、感情道徳という論理に支えられたのではないという事だけは断っておきたい。そうでなく、もう少しボクらは人を、自分を、われわれという人間を、勇気をもって今以上に信じていいのではないだろうか。そんな思いに強くかられたとはじめから云った方が話は分かりやすかったのかも知れない。確かなことはボクが走って汗をかいてコサギに出会ったということの現実。その確かな現実の中心で様々なことがあったことを信じるなら、ましてわれわれという人間そのものをアタマの危うさに頼らずにもう少し現実のボクらの根っこのところで腰を入れて信頼していいのではないか。いつまでも寒い朝が続くが確かに春は今ここにやって来た。幸いと喜びは同じところにはないがまた長めのジョグに出かけたい。その頃あのコサギはどうしているのだろうか。