Emmausブログ

人は見ね/人こそ知らね/ありなしの/われは匂ひぞ/風のもて来し

わたしたちこそ招かれる <理・reason>

◇他者(自己)を受け入れるということ

そのようにして季節を渉る <理・reason> - Emmaus’・・・わたしたちの生活には、<理・レゾン>は二つの「理性reason」と「動機・理由reason」があって、わたしたちの向かうある方向の性質、つまり<生のある方向性>を日常に表わす。だが調理にあまり論を立てることは好まれないと同じく、その理におとしめられるのもただただ気分がわるいだけで、それが原因でせっかくの料理の結果をまずくするというものだ。ともかく食事の前には争いごとはよした方がいいに決まってる。

ではまずくならぬ内に云うが・・・
このわれわれの日常生活への見取りとしての二つの軸<理性・基準>と<動機・理由>に、もう一つの軸を設けて<理・reason>を平面から立体して<生のある方向性>を描けないだろうかと思う。つまり自己と他者の関わりにまたは自己自身においても、他者(あるいは自己)を「信じる」というもう一つの次元が想定してみてはどうだろうか。そのことによって、<理・レゾン>はいっそうのわれわれ自身に「奥深さ」というものを獲得するのではないだろうか。その他者(自己)を信じることは、とりもなおさず人間のありのまま(振幅)を素材のアクを含めて受け入れるということである。もっと云えば短所もまるごと活かせ(見いだす)という事か。しかしそのようなナイーブさだけでもなさそうだが、明らかなことは信じるに足る証しというよりわたしたちにはいかばかりかの勇気が必要だ。

◇気遣いというより気配り そこそこのおいしさ

これは気むずかしいことではなく調理がそうであるように、日常の当たり前の体と気持ちの収め方、呼吸を調える心地良さだと思うが、実際にこれを意識しだすとその呼吸の仕方もぎこちないものとなって実にやっかいでまずいものになってコマッタものである。だが、これは有り余ったものの「余裕」や最低限の「猶予」というものよりも、ずっと自他ともにある人にある振幅(喜怒哀楽の情緒感情)に対する「温かさ」や「優しさ」などの人間への賛成と肯定を含めてと考えていい。もっとずっと日常での人間のいくぶん深い精神と人格(人それ自身)の<リスペクト>に支えられているに違いないが、余りに道理や倫理の健やかさが声高くが聞こえてくるのは何とも気味がわるいことだ。この自己(他者)を受け入れることは、人間という<見えないであるもの>を持ち合わせながらの、そのままの或るひとりの信頼できる友と再会すると同様なことである。友遠方より来たれば、何とも嬉しく喜ばしことだあろうが、それ以上に喜び勇むのもどうかと思えてくる。来るのは遠方の友だが、<理・レゾン>に招かれているのは、招くわたしたち自身もまたゲストだともいうことが言える。あまり人間というか何でもそうだけど、持ち上げ過ぎるとちょっと恥ずかしくなるのがふつうではないだろうか。まずくともその時の食事を少しよいものにするにもちょっとしたわたしたちの気遣いというより気配りが必要になってくる。