Emmausブログ

人は見ね/人こそ知らね/ありなしの/われは匂ひぞ/風のもて来し

デザインの免疫って

無理はしない

生き物の免疫とは、一度感染した病原体(他者)に対して強い抵抗性を獲得して次の感染に対して生体(自己)を防御する反応のことらしい。デザインの歴史的評価やその良し悪しは別として、デザイン対する考えにもおのれの抗体や免疫というものがあるのではないかと、そう思いながらでリサーチ兼ねて美術館まわりした。価値は価値でそう認めても、合わないものはムリせずに触れない方がいい。卵や鯖に当たる人が安易に食らうと飛んでもない辛い思いを後でする。

今のボクら

今までに前川國男作の上野「東京文化会館」のホールの音には何度となく魅せられた。だけど好むと好まざるとに関わらず、もとよりボクらは大衆消費社会のこの世にいるのだし、衣食住の日常のことだけでなく、消費ということでは「知」や「情報」とて同じことであり、そのボクらはこの世界に投げ出されているのにはかわりはない。

存在から精神に・空間から時間に

今回のイベントを比較することではないが、兎も角「知」の消費をも重層として現代を確認しながらも、改めて思ったことは、モダン・デザイン領域からの射程からはもうボクらは卒業しないといけない!というのが結論の一つ。いつまでも今ある「近代」を「近代の眼」で検証しても自己を鏡に映しているだけで「近代デザイン」の地平が延々続くだけで、この地平からは次のものは一向に何も見えてこないのだな。当たり前か!。少しアスプルンドのデザインに軸足をおいて気持ちがほっと解れたら、近代の限界を越えるかたちで新たなものが見えた。切り替える思いっきりは必要だ。そのここでこそ検証が可能になり、この検証はやんないといけない。
で、あまり「魂」や「心」だけを考えると、これまた何だか妙に押しつけがましく、重圧的で鼻につくのでイヤだが・・・。でもデザインというものを、もの-存在-(空間)への依存から精神-意識-(時間)への依存へと軸を確かな前提にして、足だけでなくじっくり腰をも入れていってもいいのではないかな。少々ボクの話舌足らずだが、その「魂」をひっくるめて少し真面目にデザインということを考えたりした。んん。このままではいかんぞ。さて、おのれの免疫力も考慮しながら、また気を張っていかなければないと思ったが、いつぞやの「鯖」に当たった辛さもしっかり思い出した。あれには参ったぞ。

今を語る免疫

生体の免疫は常に現在においてこそ語られるものであるし、意味を持ってくるってものだね。そこのところで、まさに「デーモス」としてのおのれの企投が何だということにもなるんだが。これが重い課題の結論の二番目。いやはや・・・結局は莫迦なおのれを飼い慣らさないといけない・・・ほぅ。おっとキヨさん、バウハウスが鯖だってわけではないからね。(^_^)。また元気になったらさぁ「おざわ」で酒でも呑もうぜ。店4月には浅草に越すらしいよ。ではまた。