<わたしたちということ>を得て
川岸のあるところだけに木が茂っているのだ。
それはわたしの欠如からの享受であるのかと問うてみる。
それはわたしの豊かさからの贈与(分け合うもの)であるのかと問うてみる。
それはわたしの他者とおなじくあることの受容であるのかと問う。
つまり
それに「アイ」を代入するのだ。
ではそれでどういうことになるのだろうか。
「アイ」はわたしの欠如からの享受であり。
「アイ」はわたしの豊かさからの贈与であり。
「アイ」はわたしの他者とおなじくあることの受容である。
ボクの感覚では・・・
「アイ」=木が存在することは、
その三つのことが分けられることなく結びついているものは、
わたしがわたしだけでなく<わたしたちということ>を得て、
そこに居ることの感謝でわたしたちの<変容>を満たす。
川岸に「木が茂っている」ということを、
ボクが「アイ」を<十全>と指し示すと、
その指し示すことによって指し示されながら<今の>ボクの状景が十全と明示されるのだ。