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“だれ一人自分のためにだけ生きている人はいない”

世界がゆるやかに構成されている?

本居宣長は「情」という字にルビを「ココロ」とふっていたそうだ。その情を支える体は情のように揺れ動くのではなく強くココロをも支える<生命>そのものだが、体だけでは私たちは完結はしない。<もっと大きなもの>への関わりが私たちを覆っているのだろう。昔庭にあった芙蓉の花をよく思い出すことがあるが、その花が<もっと大きなもの>を表しているようで、ボクが言葉を幾重にも合わすほどどんどん初めの中心の気持ちから遠のく。きっと日常に絡む言葉の代数よりももっと一つで表すことの出来る清々しい幾何学の方程式ような「指し示す」言葉があるに違いない。

吉野弘の「生命は」という詩があるが、その状景がすきだった。

生命は
自分自身だけでは完結できないように
つくられているらしい
花も
めしべとおしべが揃っているだけでは
不十分で
虫や風が訪れて
めしべとおしべを仲立ちする
生命は
その中に欠如を抱き
それを他者から満たして貰うのだ

世界は多分
他者の総和
しかし
互いに
欠如を満たすなどとは
知りもせず
知られもせず
ばらまかれている者同士
無関心でいられる間柄
ときに
うとましく思うことさえも許されている間柄
そのように
世界がゆるやかに構成されているのは
なぜ?

花が咲いている
すぐ近くまで虻の姿をした他者が
光をまとって飛んできている

私も あるとき
誰かのための虻だったろう

あなたも あるとき
私のための風だったかもしれない

生命は
その中に欠如を抱き
それを他者から満たして貰うのだ

このことを茨木のり子は「慎ましい認識、正確で敬虔な祈り」と注釈しているがどうだろうか。ボクは不満だが、そんな認識論より互いが関わることの喜び豊かさの素直さがいい。喜びに満ちることほど素敵なことはない。そして「世界がゆるやかに構成されている?」って本当だろうかと考えてみた。