歩くことについての断章
5年前の歩きと走りを経て、最近walrunの歩くということが内と外からよく分かってきてまとまったのでメモっておきます。これからまた5年するとどうなることか。さあ前に進みます。
進化と動きの束ね
人は歩くために進化したと言われている。ならば、われわれが歩くことをやめたらどうなるのか。
からだはそれぞれつながっている。からだの動きは相互に連係している。まずは片足で立つ。どれくらいの時間持つか。つぎに二足で直立に立って一歩踏み出してみる。言葉ではない、実際にやってみる。まさに、足を中心としたからだの動きの束ね。日常の何気無い所作。前方に自分を押し出す。立ち現れるからだの肌理。
回想と回帰
歩くということは、具体的な目的を超えて、身体の動きの束ねを通しての、言うならば人類進化への回想ではないか。あるいは自己の生長のエピローグとプロローグの回帰。今と未知とを等しくし、時間と空間に可能性(出来るかも知れないこと)を見てきたのだ。
さり気ない経験
歩きは人の進化の基だが、しかし、歩きそのものがもたらす気にもとめないさりげない気分はどこから来るのだろう。
意味すら求めることもない経験への探求。きっと歩きにおける進化の暦は欠如を満たすことで成り立ってはいないのだろう。もし意味を見出すとしたら、構造としても視覚としても足が運動軸としての座と背とからだの全体と連動すること。調和のとれた切れ目のない重力軸に対してスムーズにユニットすることだろう。では経験はいうと、それは歩くことにまつわる日々の喜びと楽しさ。苦しさと悲しさ。あるいは恐れと怒り。
暮らしのなかでの奥行きと幅
迂闊だった。生命の波を絶つことにもなりかねない歩き。それが、とりとめもない会話のように日々の暮らしのなかで、ついにはわれわれに輝きと安らぎの経験を与えることもあるとは。俄かにまたじわじわと歩くということの奥行きの深さと幅の広さがわかってきた。時間と空間との可能性の終わりが来る日までこの歩を進める。