Emmausブログ

人は見ね/人こそ知らね/ありなしの/われは匂ひぞ/風のもて来し

今何をするのか?

何はさておき人の命は確かに尊く素晴らしいものだ。だがしかし、あるところである場所で、人と人との戦いが永く続けられているのだ、今もまだ。聖地の惨状: 司教の日記

今日の主日のミサでの御言葉を思い巡らした。

その日、べテルの祭司アマツヤアモスに言った。「先見者よ、行け。ユダの国へ逃れ、そこで糧を得よ。そこで預言するがよい。だが、べテルでは二度と預言するな。ここは王の聖所、王国の神殿だから。」アモスは答えてアマツヤに言った。「わたしは預言者ではない。預言者の弟子でもない。わたしは家畜を飼い、いちじく桑を栽培する者だ。ところが、主は家畜の群れを追っているところから、わたしを取り、『行って、わが民イスラエルに預言せよ』と言われた。」

アモスの預言 7:12-15

その時、イエスは十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け、旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして「下着は二枚着てはならない」と命じられた。
マルコ 6:7

穏やかさや和みがあるとは決して云え無い派遣。不安があるイエスの呼びかけ。そこにはある種の緊張があるのだ。今でも続いているのだろう。今にして緊張とともにある安らぎのイエスの慈しみとは何だろうか?緊張の先に憐れみがあるのか?さて憐れみの先に何も持たないで行きなさいという恵みがあるのか? 否、持たないという事自体が恵みであるのかも知れない。イエスはわたし達に何を今こそお伝えになるだろうか? あなただったら、今この2006年にこの時に何をなさるというのだろうか。イエスよ。沈黙のイエスよ。私たちはただ祈りの中で留まっていていいのだろうか。
(追記06/07/17)
「今この2006年にこの時に何をなさるというのだろうか。」・・・そうではないだろう。だからこそこの地上に体を受け、すべてを背負って十字架を受けられた。復活され天に昇られた。いまも働き続けておられる。私が微かな目覚めにあるのは私自身による行いでは無いからだ。