Emmausブログ

人は見ね/人こそ知らね/ありなしの/われは匂ひぞ/風のもて来し

ふつうに考えるって何?

昔飼い犬に噛みつかれたことあった。イタタである。もちろんボクがそのクロにいけないイタズラをしたからだ(ひどいものだ)。痛かったがその幼い時にある人が言ったこと「ほどほどにしろ」。痛みを知らずにただ「ほどほど」だけを知った過ち。あの時の手の痛みは消えたけど痛む心が何故か今まだ消えやしない。「窮鼠猫を噛む」という言い方がある。これは、弱い者も追い込められると何するか分からない(強い者に立ち向かう)という意味だけでなく、この言葉はどうやらもっと権力者の民への手綱の締め具合の戒めや、タクティックス(手練)だとも取れる向きがある。むろん追い込められたもの(動物)が危険であるということが前提だ。よって上下強弱を外からこれを見取った上で自らの行いをストラテジーすることにもなるのだろうか。

これは動物の行いをアナロジーとして訓蒙とする例だが、人間と動物を同じように見るところに、既に人を人と見ない視線を感じてぞっとする。がそれよりも譬え話しはより単純に人に教えをつたえたいから複雑な人間より行動形態の分かりやすい動物を例えに使うのだろう。

その教訓めいた「窮鼠猫を噛む」の目線の権力というものを持っていてさらに老獪が加わるならばもう、「虚無」がそこに見え隠れして、ワナワナとボクには震えがくるのだ。Emmausさん現実ってそうなんだといいよられているワナワナ感。あんたはノー天気だよって。でも分かっているくせにってすずしげな目線にプルプルと震えがきます。でもうネズミのボクは一気に噛みつくかもしれない。

言葉はその状況や立場で意味を変える。私はある時「ネズミ」ある時「猫」にもなる。というよりも、いかようにでもなる人間そのものの私をどうするかに考えが至ることになる。これはいわゆる、人間論に収斂することではない。況や人間主義でもない。そんなたいそうなことではない。ごく「ふつう」に人間についてそう考えるということである。知におごらないネズミでも猫でもない眼差しの「ふつう」ってむずかしい。噛みつくEmmausってことになるっておだやかでないね。いやはや。