Emmausブログ

人は見ね/人こそ知らね/ありなしの/われは匂ひぞ/風のもて来し

より劣った必要にもとづくものを

心はそうだとしても体は弱い

音楽は何処かに向かう。人も何処かにむかう。・・・三十年間やってきたデザインの仕事を閉じた。そして、終末医療の介護に就いた。それから五ヶ月。今、明らかに疲れを感じている。60歳を前に人に関わる「手応えのある」仕事ととして熟慮の末だった。だがどうだろう。介護という職種が収入が低いかは予測していたが、はるかにその現実の辛さが身にしみてくる冬の冷たさ。今、正直言ってボクは弱音を吐いている。体には自信があったが心はくたくただ。違う・・・そうではない。心は燃えても(そうだとしても)肉体は弱い The spirit is willing, but the body is weak(マタイ 26:41)ということだろう。

より劣った必要にもとづくものを

この社会は何によって基づいているのか。とりわけ宗教の力とは何か。あるいはいかなる力もない信仰で自分を支えることとは何か。ボクは心ではなく体が(現実に)疲れている。それにもまして、現実をいかに形に現す(変える)という知恵(方法)にも疲れている。いや、やはり心が折れたのだ。擦り切れた理性か。

シモーヌ・ヴェイユを紐解いてみた。

社会は理性や徳にもとづいて成り立っているわけではありません。なぜなら、<<宗教が力をもつのは、人間が死のまぎわにあるとき、病気が情熱をうち負かして人間が無気力によこたわるとき、あるいは、人間が互いにいかなる交流ももたぬ寺院のなかにいるときである。ところが、宗教がもっとも必要とされるはずの市の広場や宮廷では、宗教はいかなる力も持ってない>>からです。人間はだれでも、適用する必要がないときにかぎって、厳格な倫理を認めたがるものです。世界でもっとも純粋な倫理をもたらしたキリスト教の確立も、それによって何ものも変えませんでした。
政治がかかえる問題というものはすべて、結局のところ、理性が要求するものに適合すると同時により劣った必要にもとづくような社会形態を、特定の条件のなかで見いだすということに帰着するでしょう。
そこでまず、より劣った必要というものを果たす役割を理解する事からはじめなければなりません。

ヴェイユの哲学講義より 訳:渡辺一民

公にはいかなる力も持ってない宗教という信仰で自らを調える。心は強くともその体は弱い。サッカーのピッチで選手が十字を切ることがよく分かる。

「目に見える兄弟を愛していない者は、目に見えない神を愛することはできません」(ヨハネの手紙1 4:20)。

どうぞ佳いお年をお迎えください