手と足
歩いて走る。普段動かしている手足、この身体性について俯瞰するとどうしても吉本隆明の「心とは何か」の〈身体論をめぐって〉に行き着きます。身体については医学生理学の専門の書もあるでしょうが、この書に惹きつけるのは吉本の目がわれわれの「生きる」日常の視線としてまた思想として身体について本質的で先鋭的なことを提示しているからでしょう。歩くことについての断章 - emmaus.hatenablog.jpのブランチとして〈身体論をめぐって〉について少し書いてみようと思います。
扨て、〈身体論をめぐって〉の前段はドイツ観念論やマルクスや現象論などの身体論についての哲学の専門のことがらでやや敬遠しそうになりますので飛ばしてもいいし、吉本の噛み砕いた文章にたすけられるので理解できます。難解ですが時間があればカジるとなかなか味があります。(笑)特にマルクスの身体論の非有機的身体性は興味深いです。
このように、吉本は思想においての代表的な身体論を要約していき、ヘーゲルとフォイエルバッハがいう概念的な人間の器官という身体論を下敷きに、吉本は自論を展開します。
まず外界を感覚器官が受け入れる。受け入れるには受け入れと受け入れたものを理解する二つの作用がある。- 感覚器官が受け入れることを関係づけと考える。
- 関係性は空間性と定義する。それもまた関係づけだと考える。
- 感覚器官の受け入れを理解することを了解性と考える。
- 了解性は時間性作用だと考える。
----p149---
そうしますと、動物ももちろん手を動かします。それから足で歩きます。そこで動物性と人間性、人間の身体性と動物の身体性、あるいは、ヘーゲルのいう「動物的段階までの身体性」とは、何がちがうかということになります。手の作用と足の作用が、身体が機能的にかんがえられる限りの時間性と空間性、あるいは関係性と了解性(受け入れたものを理解する)の範囲をはるかに超えてできるようになった時に、身体は人間と呼ばれるようになった、とかんがえてきました。つまり、もしその身体性が持つ機能的空間性と機能的時間性、あるいは機能的な了解性と機能的な行動性、あるいは関係づけの範囲内にとどまるならば、それは動物性と一行に変わらない。動物もまたそうしているだろうとおもわれます。そうすると、動物と人間との身体性の相違は、たぶん人間のばあいだけ、手の働き足の働き、あるいはその了解の働きと関係づけの働き、あるいは時間性と空間性において、はるかに機能的限界を超えて実現することができる。そういうことがありうるとすれば、そういう身体が人間になったんだと、かんがえていいとおもいます。
結論としては
身体とはさまざまな時間性の度合いとさまざまな空間性の度合い、あるいはさまざまな関係づけの度合いとさまざまな了解の度合いが交錯した存在、それがイメージとしての身体なんだ、という結論になります。
----p150---
心とは何かー心的現象論入門 著者:吉本隆明 出版社:弓立社
あっけない結論です。感想としては、吉本の手と足についての空間性と時間性が安易に重層していて、読んでいると混乱するようですが敢えていえば、それは読む側が手を空間性の獲得として理解して、足がそれを拡張した時間性と理解するのもできるわけで、手と足の機能を時間性と空間性に分けるのもいいし、またそのまま重層的に同じにしても問題ないように考える方が良い訳です。ポイントはこのわれわれの進化は足と手による限界を超えることで今日に至ったのですから。
問題はもっと次ぎにあって、吉本も言及しているのですが、身体論の究極は、言葉とどう結びつくのかという問題と、行動・行為とどう結びつくのかという問題になっていきます。つまり、このように身体を語ることは、心のことを語ることにつながっていって、ここに言葉の問題が終わることなく今までも今もそしてこれからも横たわっているということになっていきます。以上吉本の身体論についてまとめました。