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“だれ一人自分のためにだけ生きている人はいない”

方法としての直観

絵は語る (13) 夏秋草図屏風-酒井抱一筆 追憶の銀色-

絵は語る (13) 夏秋草図屏風-酒井抱一筆 追憶の銀色-

こちらから色を限定するのではなく、持続する色そのものに囲まれた中で色を見出すと云ったらいいだろうか。寧ろ「色を掬う」というべきか。それが直観によって見出すということ。かのベルクソンの方法でもあるかのように。だがあくまでも持続するものが優先する。持続に対して直観は二次的であるのだ。

ベルグソンが方法的に理解しているものとしての直観は、すでに持続を前提としており、彼がその点を強調していることは事実である。《持続についてのこのような考察は、決定的なものと思われるた。この考察によって、われわれはしだいに、直観を哲学的方法として示すようになったのである。しかし、私は、直観ということばを用いるまで、長い間ためらった。》
 「ベルグソンの哲学」ジル・ドウルーズ 宇波彰 訳

だが、奇妙なことにその直観が明確に存在しないとすると、この持続は単なる直観的なままであると述べている。だからこそ、そのことによってのみ明確な方法としての直観は全面に押し出されるのだ。
このベルグソン特有の、内在的規定も、ある意味で二重にその自己を見出されるのだ。まさに、

理論の視点からも実践の視点からも、人間の歴史は問題の構成の歴史である。

だから色においても問題提起のあり方と問題解決のあり方が混同されてはならないのだろう。出来ない答えは問題提起にはならないと云ったのは誰だったろうか?でも、これは別次元のことだろう。
あれから半年経った。「■[視点] 在るに開く」http://d.hatena.ne.jp/ousia/20060403#p1
そんな訳ですっかり気持ちも秋に落ち着いてくる。