死に縁取られた生
生と死 厳密には生者と死者について
生が死に縁取られているなら、また死も生に縁取られていると云っていいのではないか。輪廻だったろ循環ということではなく。生命というものの現実実体とまた人間の意志の関わりにおいて。
実はここのところkarposさんのブログで、<死者の語りについて>として「想い起こす」シリーズが継続中で、しばらく結論が見えるまで静観するつもりだった。おそらくこの「想い起こすこと」はあるいは生者と死者について語ることをさらに二重に想い起こすということだろうと推察する。
語る、ということは、
想い起こすという作業なしにはできないから
宗教経験を想い起こしていくと、
いのちと死のところまで、つき当たることになる。
というのも、今年7月頃からKIYONOBUMIEさんが辻邦生の作品に於ける死者の内面世界、「生と死」の視点から書かれた記事にボクは興味をもっていたのだが、この十月トゥールーズで死生学のコロックにおいて(き)さんが「辻邦生の文学における生と死」というタイトルで発表されという。(全文を読みたいのですが良かったら(き)さんメール下さい)
ブログというものが常に「今」の旬というものが要なのでこのまま見過ごしていると、時間の経過とともに埋もれると思い、二つのブログはそれぞれ切り口は違うが興味深くこの関連のエントリーを紹介しておきましょう。
ところで、「生と死」あるいは「生と死を語る」ということで、ボクは少し前に死者の書・折口信夫 - Emmaus’を書いたのだがもう少し踏み込んで違う観点から池澤夏樹の小説「真昼のプリニウス」の中のおハツとの架空の対話を切り口にエントリーしたいと思っている。単なる文学書評にはしたくないがどうなることだろうか?