Emmausブログ

人は見ね/人こそ知らね/ありなしの/われは匂ひぞ/風のもて来し

視ること・写すこと

晒されて視て写して記憶に至る

存在と描写と表現=脱複写 - Emmaus’にTBされた中山さんが更に、画家・佐伯祐三2007-10-14 - 横浜逍遙亭)にも敷衍されコメントされている。

思うに・・・認識とは<存在>そのものを思考することだろうから、ルクレティウスが云うように敢えて「眼は事物の本性を認識できない」と反語的に問うてみる。だからこそ、ボクとあなた(対象)をただの主観と客体との関係だけではなく、先ずは生きるこの場にそのものにおいて晒されてなお眼が先ずは事物(対象)に向き合う(認識する)ことの基本になる。眼は視るということ(認識そのもの)ならば対象(世界)に対してボクら主体そのもの全体だということを確認しておこう。五感であって-眼であり耳であり、鼻でもあって触れあう膚と味覚の舌-だという、それはわれわれ自身の全体でもあるのだ。

視るということに限定していくと写真を語る意味が浮かび上がる。視るということを、如何にして視たということに、つまり未視から現視と既視に、視ることを写真として表現に定着するかということを、mmpoloさんが渡辺兼人についてのアーティクル(「既視の街」の写真家・渡辺兼人 - mmpoloの日記)は、写真表現のある場面(現場)として的確にボクらが共有することになるのではないか。
触発される写真家として渡辺兼人以外にボクは森山大道を挙げたい。