Emmausブログ

人は見ね/人こそ知らね/ありなしの/われは匂ひぞ/風のもて来し

風に靡かせながら

勇気というものは、青年にだけが保持するものだろうか? 自らをふるい起こし、それを発揮するのは若者だけでだろうか。無論そうではない。老成にある者とて常に既知と未知の十字路の途上であるのだ。志向の未開の領野にある者なら、かつて知り得ないような新たな感覚にうち震えるのだと、わたしは確信する。老いたる者は減衰をむかえながらも、経験は常に初めてという<事態>にあって、かつてない自らの旗を風に靡かせているのだ。<老いに成る者>も精神は大胆にもオノレの内にある感覚を悟性とを照合している。人間のダイナミズムが経験をなだらかに新たにしていく。経験が一人の人間を定義するという純化された「感覚」を保ちながら、<老いに成る者>はある規範や基準をスパイラルに巡らす。だから、<老いに成る者>は精神にある人間存在の術(方法)というものの勇気自体をますます必要としているのだ。

一方、勇気とは未知にかかわるものではあるが、いわば拡りは既に知れており、ただその深度と強度の点で未知なのである。後者つまり勇気の場合、既知あるいはその外延において既知になった未知の枠内において、強度の点で未知が存在する。この意味で、老年は勇気を要するのである。青少年はむしろ大胆の方に向いているのだから、老年は青少年のまだ知らないような大変な勇気を必要とするのである。僕にとって老年は静謐などではなく、年を重ねるにつれてますます激しく吹きつのって罷まない嵐に対抗することなのである。〜何となれば、老年においては、進むにつれて既知が未知に吸い込まれていくからである。

森有正 集成・5より