京の人より香菫の一束を贈り来しけるを -あるいは挑むこと-
桜の季節はとうに過ぎさり、その林床に咲く菫は見渡すと、いまだ日当たりのよい草地や道端の角に勢いよく咲いている。成長というより、ただそこに花が「在る」とう意味は大きい。
挑むことがないと成長はない。若い頃とある大学祭のテーマに「挑戦は徒労か?」というものがあった。挑むしかなだろう。困難を乗り越えて目指す目標にむかう強い意志というものが自分の標語でもあったのだ。
しかし、あれから50年経ち、この歳で成長というものとはもはや遠のいている。衰えの続くなかで少しでも自分の心身の可動域というものをひろげておこうと思う。これは偽らざる気持ちである。 人には迷惑をかけてはならぬ。ともかく、自分で自分をコントロールできる状態でいたい。レジリエンス・ゾーンにとどまっていたい、復元域を拡げるのはセルフマネジメントの基本。これは精神論ではなく、健やかさを願う命の営みの問題である。
かつて、病に伏す辛さとは真反対に俳人の正岡子規は、自己促進のレジリエンス・ゾーンという言葉をはるかに超えたところで、「在る」「居る」という意味の、どこかに健やかさというもの自体が幻のように浮かび上がってくるのを知った。
人からの贈り物は収賄であると言って贈り物は無用なものに尽きるという子規。そして誰からか貰った小さな地球儀を病床の天井に釣って眺めて楽しんでいる子規の「居る」「在る」の意味は、人間の振幅の大きさであったのだ。
そんななか、
京の人より香菫の一束を贈り来しけるを
子規は詠っている。
その門下の夏目漱石は
菫ほどな小さき人に生まれたし
をよんでいる。