Emmausブログ

人は見ね/人こそ知らね/ありなしの/われは匂ひぞ/風のもて来し

結び直す

もう一度丹念に「在ることの驚きの中で」高野喜久雄を読んでみる。

「見るためには、眼を閉じねばなりません」と言った人もいました。眼を開き眼を閉じて、結局のところ私達は何を見るのでしょうか。「在るもの」、「在ること」の不思議、その驚きの中で、私達は出会ったもの、凝視したものをひたすら名付けようとしています。しかし同時に、「あなた方が、<見える>と言い張るところに、あなた方の<罪>がある」と聴こえる、あの声にも、静かに耳を澄ませながらです。

見ることは眼を閉じること。そして<見える>と言い張るところに私たちの<罪>があると見えるあの声とは何か。それに耳を澄ませる。

「宇宙は部分的に秩序であるに過ぎない。残余はすべて燃えがらである」と言った人(T.E.Hume)は、また「神や真理を考えることは象徴的言語の病気だ」とも言いました。もし彼の言葉が正しいなら、たぶん私達は避けようもなく重症です。でも、これは何と素晴らしく美しい病気でしょうか。

避けようもなく重症でもいいのだが。まあそれはそうとして、でここに及んでかつて渡辺一夫が云った「人間は兎角『天使になろうとして豚になる』存在であり、しかも、さぼてんでもなく亀の子でもない存在であることを自覚した人間の愕然とした、沈痛な述懐にもなるかもしれません。」ということを思い出した。この自覚が無いことが「罪」ということにもなると渡辺は云うのだが、高野と渡辺は表現こそ違え、全く同じくともに人間実体を表している。むろん善を肯定すべきだが、このように率直に人間のあり様を述べるのは事を欠くことであろうか。左様にわたしたちの存在をもっとあからさまに大らかに捉えてみたいという昨今である。

結ぶことはまた、何よりも像を結ぶ仕事です。 いまだ無いものに向かっても像を与えねばなりません。既に無いものに向かっても像を与えねばなりません。 前者を企投と呼び後者を想起と言い換えてもかまいません。 しかしこれらは二つのものであると共に一つのものです。企投は想起なしには真の企投とはなり得ず、またその逆も言えるからです。 いまだ無いものへの応答が、真のそれとなるためには、既に無いものへの応答が不可欠であることを思い出せば充分でしょうか。

とはいえ、「ただ単に神から離れて行く想像力」も、「ただ単に神へと向かう想像力」も、それが単にそれである限りでは、私にはとても受け容れがたいものでした。 もし私達が、神から離れつつある時間の中にいたとしても、それは同時に、神へと向かう時間の中にいるのです。離れることが、さらに大きな出会いとなる在り方で、私達は言葉と共にいます。なぜなら「再び・結び直す」こと、「共に・生まれ直す」ことこそが、言葉を抱きしめている私達の第一の理由だからです。

離脱によって真空に向かう。あるいは境界にいる。これはまさにヴェイユだ。ならばその境界の外でも内でもないその線上の<場>を設えた人がいる。よって高野も西田幾多郎のことをこうも云っている。

ここに一枚の紙と鉛筆があります。 この紙の上に閉じた円を書き、紙の上を円の内部と外部とに二分します。 もしこの円の中を「有」と名付ければ、外部は「有で無い」つまり「無」の部分です。 ではこの円、この紙を二つを分けた境界線は何なのでしょう、有なのか、無なのか。 しかも、この線の上に立つことで、有と無を一挙に超えようとする不思議な考え方(Kitaro Nishida)もあったのです。

http://www.asahi-net.or.jp/~yp5k-tkn/romauniv1.html - 在ることの驚きの中で ローマ大の若い友人に -