Emmausブログ

人は見ね/人こそ知らね/ありなしの/われは匂ひぞ/風のもて来し

「おい」という言表・ラングとランガージュ

草枕」の第2章の始め、余(主人公の画工)が「おい」(英訳ではAnyone there?)と峠の茶屋の者を呼ぶ。言語はその言語の裡に言語の本質を表します。犬が「ワン」と吠えた音に発話の意味を見いだすことは出来ません。単純に「おい」という言葉の器(記号)が人の前にあってこれに発話者が息を吹き込んでいるものでもない。人間は伝える意図と意志が先ずあった後、ある「おい」と暗号や符合を探して発話してその符合を他者に渡すというより、もっと実際には瞬時に、「発話するたびに、人間は自分を状況に位置づけ発話主体である自分、発話の出来事の時間を出発にいて、自分自身を組み込んだ関係の網を構築していく*1」存在である。それを一気に「おい」と言表することになる。

というのも、言語は言葉の単体の集合総体というより、わたしたちはもっと言葉にまつわる裾野を巡らして、人間のもつ言葉を使う能力と、言葉を使って行う具体的な活動を視野にいれた「言語」の領野(世界)に、わたしたちは自らをわたしたちたらしめる存在(世界内存在)としてここ(自然内存在)に居るからでしょう。

あるいは猫がピアノの上を飛び跳ねても表現とは言うことは出来ません。言葉と同様に人間は表現する音をつくりながら表現するたびに、自己を世界に位置づけ表現主体である自己、表現行為の時間を出発にいて、自己自身を組み込んだ関係の網を構築して融合と分離を続けてゆく。とんでもなく、「おい」には、言葉と自己の融合と分離が含意されています。固有の音に限定された内包には、われわれが築き上げる外延を同時に見ることになるのです。まさに見えぬ我が顔を覗くように。


id:elmikaminoさんがとてもいい適宜なコメントをして下さった。

要するに、我々は発話にいたる過程において、決して日本語特有ではない、という意味での「一般化可能な概念」の「一般化可能な操作」を行っているという考え方ですよね。

http://d.hatena.ne.jp/Emmaus/20070304#c1173103520

日本語を外国人に巧く説明できるということは、その説明原理が他の言語にも応用可能な証拠ではないかと思います。

ともかく・・・言葉の言語におけるランガージュ(言語能力)はポテンシャル(潜在的な能力)としては問題はなく・・・発話者と言述者の経験、それも生命の危険の状況を考えるとどうなるでしょう。言葉のそれぞれの言語共同体に歴史的に構成され、記号体系としてのラング(言語)を制度的フレームで括るのではなく、むしろラングはルールということよりも契約的様態と見る方が現実的だろうとボクは考えます。つまり危機において文法単位が単語やフレーズの静的に作動せずに、前の語に促され次の語が導きだされる動的関係を指すことになるようです。危機的状況においてはランガージュするのはつまり動けるのは、ラングの規則に従って個人が意思を表現・伝達する一回ごとの発話行為であるパロール(言)の当事者でしかなく、ここの現場(世界)に居る生きたわたしたちの言葉の表現でしか他にないのです。

それは個別的である故に一般性をもつことの証左である。何故なら「おい」は余の画工が日本人であり、温泉に向かう山路を歩き、峠の茶屋にたどり着いて、茶屋の日本人の者に日本語で呼び掛けた発話の言葉だからです。あらゆる限定があるわけで、だからこそ一般性を獲得出来るのです。

発話の営為パロール(言)「おい」の言表が「誰かおらぬか」のラング(言語)に対して、自らも変容を自由にコミットしているのです。つまり敢えて意識の上に昇らない自言語者の「既知」と他言語者の「未知」との接触においてこそ、「おい」がローカルな文法でなく、ある別な回路をとうしてパロール(コミュニケート)する関係とその特質を明らかにしてくれることになる。言語という特異な限定されたものを固有に持つ内包性がランガージュ(言語能力)に感応しながらも、他方われわれの他言語を乗り越えてなお見えてくる一般性あるいは普遍である外延性を見いだすことになってゆく。

確かにラングは生得的でなく、もっと自由にラング自体は生成的(generative)であっていいだろうし、気楽モードでもいいのかなとボクは考えられます。肝心なのは・・・そうそうラングの体系の様式性とパロールの言述性の関係の密度を深めると、如何せんラングとパロールの相互依存やもたれ合いの談合となって、必要以上な粘着質の関係志向となり、潜在性のランガージュの力自体が減衰するだけでなく、言語における中毒をおこすこと避けられない。砕けて言うと、非言語ですがジャズの即興のようにラングとパロールのところを風通しよいものにしないと。ある意味で言語のラングとパロールの果敢なニアミスは禁じ手で命取りでしょう。問題はそれを如何に処理するかでしょう。

*1:日本語の森を歩いて」小林康夫+フランス・ドヌルp13