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“だれ一人自分のためにだけ生きている人はいない”

マルツィン・アフデェーイチの信仰/眼差しのある情景1

かつて「マルツィン・アフデェーイチの靴屋の物語」のあらすじとそれに即したことを書いたのですが、読み返してリニューアルしました。こちらにアップいたします。一日おそいですが、さしずめ皆さんへのクリスマスプレゼントになればいいなと思っています。やはり、実際に本を読んで下さったほうが一番です。もうすでにお読みになった方もこれを機会にもう一度読み返してはいかがでしょうか。また違う感慨がわくかも知れません。

はじめに

たいせつなこと、どこにあるのでしょうか。ここでもないし、あそこでもない。そんなことのお話です。「どこかにある心・どこかに居る心」と思って下さい。確かにトルストイキリスト教信仰の教えを背景にこの物語を書いていますが、限られた宗教の枠をこえてもっといろんな多くの人に対しても、心のことについて語りかけているように思えてなりません。

愛あるところに神あり (トルストイの散歩道)

ちなみに

どうやらトルストイ古今東西の聖賢の言葉に精通していたようで、孔子論語の「仁遠からんや、我、仁を慾すれば、ここに仁至る」ということを知っていたようです。この言葉はトルストイの晩年の作品「文読む月日」にも収録されています。ISBN:4480039112

「愛のあるところに神あり」について

この物語 -主人公マルツィン・アフデェーイチの話- はトルストイのオリジナルではありません。ロシアの国民伝説の焼き直しでもなく、フランスの原作ルーベン・サイアンからの翻案であるとされています。

あらすじのはじまり・靴屋のマルツィン

行き交う人の靴しか見えない往来に向いた窓。その窓一つきりしかない地下の小部屋にマルツィン・アフデェーイチという靴屋が住んでいました。マルツィン・アフデェーイチは窓から足元が見えるだけでその人を見分けることができました。彼はもうずっと古く同じところに住んでいたので知り合いが多く、直したもの含め彼の手に掛からない靴はないくらいだったからです。アフデェーイチの仕事は手堅く、靴の材料も良く、そのうえ手間賃が安い上、安請け合いはしないで確かな約束を果たすので、彼にはたくさん仕事があっていつもそれは切れることはありませんでした。

落胆する希望のないマルツィン

マルツィンは昔からいい人間でしたが、年をとるにしたがって一そう自分の内面-魂-のことを考えるようになり、ますます神さまに近づくようになっていきました。しかし、神さまは彼にある点で幸福を与えませんでした。というのも、マルツィンの妻は彼がまだ親方のところにいた頃に亡くなりましたし、その後男の子がいたのですが楽しみにしていたその子も上の子供たちと同じように病で亡くなってしまったのです。果たしてマルツィンは神さまに不平を言うほどでつらくなっていました。彼は孤独に堪えられなくなって何度も神さまに死をお願いし、年寄りの自分ではなくかわいい息子の命をお召しになるとは神さまもひどすぎる・・・、とマルツィンは情けもない神さまを責めるようになりました。その落胆ぶりはひどく、生きる希望もなくてしまうほどで、教会にいくこともやめてしまうというありさまでした。

希望をもつマルツィン・静かな喜び

ある時もう八年も巡礼していた同郷の老人がマルツィンを尋ねてきました。マルツィンは自らの悲しみについて「わたしはもう生きている気もありません」と訴えます。すると、その老人はマルツィンの失意を思いやりながら、この世の有り様や人の有り様は神さまの御心にあると言って「それを落胆しているのは、おまえが自分だけの喜びのために生きようとしているからだ」と彼の心を正します。「じゃ人間はなんのために生きればいいんですかね?」と尋ねるマルツィンに老人は答えます。「神さまのために生きるようになりさえすれば、何も悲しむことなんかなくなって何でもなく思われるようになるのじゃ」。マルツィンが「じゃどうすれば、神さまのために生きられるようになるのですかね?」と訊くと「それはキリストさまがちゃんと教えておいて下されているというもんだ」と言って聖書をよく読むことをマルツィンに勧めました。そうしてこの言葉は深く彼の心にしみいるようになりました。
さてこうして毎日聖書を読むのが日課になって彼の心は安らかになっていっていきました。聖書を読めば読むほどマルツィンは神さまが望んでいることがほんとうによく分かるようになりました。生活も一変し以前などは祭りの日に彼が酒場などへ行っていた時などはウォートカを呑んでいい機嫌になってしまって、ばか話をしたり人を罵ったり責めたりするようなことがあったのですが、それも今ではすっかり収まって生活は静かなものとなり喜びに満ちたものになりました。

呼びかけの日

ある時マルツィンは寝なければならないのに遅くまで聖書を何章も読みふけっていることがありました。しかし読みながら聖句をいろいろ考えている中にいつともなく眠ってしまいました。そして誰かが耳元で「マルツィン!」と自分を呼びかけたような気がしたのです。マルツィンは夢心地でびっくりして「だれだな?」と振り返って戸口を見ましたが誰もいません。またちょっと横になったのですが、ととつぜんはっきりと声が聞こえたと思いました。「マルツィン、おいマルツィン!明日往来を見ておれよ、わしが行くから」・・・。夢の中だったか現だったかはっきりしないでマルツィンはランプを消してともかく床についたのでした。

待ちわびる・三人の人が訪れる

翌日マルツィンは昨日の「わしが行くから」ということを心でたえず考えていたのは言うまでもありません。仕事をしながらもたえず昨日のことばかり考えていました。あれは夢だとも思えば、ほんとうに声を聞いたようにも考えられると思いました。なあに。こんなことってよくあることだと・・・。
そしてこの日マルツィンのもとにある三人の者たちが訪れます。一つ目は手に雪かきのシャベルを持ったニコライ一世時代の年をとった、お情けで隣家の商人に養われている老人のステパーヌイチが現れたことです。二つ目は子供を抱いた見知らぬ女が夏服で現れたこと。三つ目はリンゴを盗もうとした男の子とリンゴ売りのおばあさんとのいさかいに取り入ったことでした。アフデェーイチはその三人のそれぞれに、先ずは雪かきの老人にはよく話を聞きてやり温かなお茶をもてなしてやりました。次に明日の命さえ分からぬ女にはシチューとパンと古いオーバーを与えました。そして子と諍うばあさんにはリンゴの代金を支払ってあげました。マルツィンは自分でも分からぬままにその三人に手をさしのべて優しく対応したのでした。

救い主がおられる

マルツィンの長い一日。外にはもう街灯がともっています。「さぁまたおれも灯りをつけねばなるまい」とランプの支度をしてからまた仕事に向います。しばらくして長靴の片方を仕上げました。やおらマルツィンは棚から福音書をとりおろして、福音書を開くと同時に昨夜彼に呼びかけた声の夢のことを思い出しました。
思い出すと同時にとつぜんうしろから誰かが近づいてくるような気配がしました。誰か分かりませんが彼の耳にはこういう声が聞こえたのです。「マルツィン!マルツィン!おまえにわしがわからないのかね?」と。それとともに今居る暗い部屋の片隅のところに今日マルツィンが助けてあげた三人の人々が次々に出てきてにっこりして「これもわたしだよ」という声がして、皆な雲のように消えていったのです。マルツィンの心は喜びでいっぱいになりました。信じてよかった。知らなかったがあの人がわしが待ち望んでいた方だったんだ。あの時わしの名を呼んだ方だったのかと。

彼は十字を切り、福音書を開き読み始めました・・・。
「そは、汝ら、わが飢えし時われに食与え、渇きし時われに飲ませ、旅せし時われを宿らせたればなり・・・」「汝ら、わが兄弟なるこれらのいと小さき者のひとりになしたるは、すなわちわれになしたるなり」。

『お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ・・・』マタイ書25:35『わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』マタイ書25:40

マルツィンは、夢が自分を欺かなかったこと。自分の信じることは疑わかったこと。近くに来てこまった人には親切にしたこと。遠くのあの方が自分のところにこられたということ。あの方を正しく迎え入れることができたということを悟ったのでした。

物語はこれで終わりです

ちょっと考えたこと

マルツィンは心に芽生えた「愛」によって〈たいせつなこと〉に接し、生きる希望を見出しました。心にある〈たいせつなこと〉は遠く外にいる(ある)と捉えがちなわたしたちの考え方をとりはらい、それはむしろわたしたちの内の中にいる(ある)ことをこの物語は示しています。この〈たいせつなこと〉とは真実と一体となるということです。それは遠い未来の世界で実現されるのではなく届かぬ雲の上に実現するのでもありませんでした。このわたしの心の内にありました。

このように<心の有り方>を自己の境界を越えて、そして見失ってしまった「確かなこと」をわたしたちの内に語りかけてきます。ですからこの作品は宗教というキリスト教の限られた枠を超えて多くの人に深く豊かな心の共感の物語として読み継がれているのでしょう。キリスト教以外のあらゆる人にもクリスマスが喜ばれているのなら、またこの作品も然りで、もっと読んでもらって広められみんなの物語になってゆくちがいないと思います。

そしていつの間にかマルツィンと同じように、この物語を読むわたしたちの心の内にも外にあると思っていたほど遠いものが注ぎ込んで、直に語りかけられた喜びと温かさで満たされています。この話は寒い夕べにいただく心のこもった温かいスープのようです。同じスープでも作り方次第だということになりましょうか。

トルストイ1885年作「愛のあるところに神あり」。なお、岩波文庫より「人はなんで生きるか」中村白葉訳にもこの作品は収録されています。トルストイ民話集 人はなんで生きるか 他四篇 (岩波文庫)