Emmausブログ

人は見ね/人こそ知らね/ありなしの/われは匂ひぞ/風のもて来し

「手の変幻」


karposさんがここのところミッシェル・ド・セルトー「信じるという脆さ」1祈りのうちにある人<所作の木>を続けられている。祈る木 ① - karpos’s blog。所作を含む祈りの身体性と祈りの全体性あたりに関心があったので興味深く読んでいる。
「手」にまつわること。意識的!な「手の所作」から無意識!の「手の表情」一般に裾野を広げてみても、人間の手というものは実に興味が尽きないのは何故だろう? 人体を構成する一部の手。その手が明かす所作と表情が人間の全体性ってことを如実にその内面性を支点にして重層的に露わにする。その(祈りの身体性)の周辺からまた「祈り」への高みとして話を還元できないだろうか。だがこのことを一気に従来からの「霊性」ということに問題を類型的に対象化するなら<今>を望む祈りとしてはその来る地平を失いかねない、いやすべきでないと思ったりもする。実に「祈り」とこの周辺の事象を未分化のあるがままの直接経験(-西田幾多郎的-)として絡められたらと思う自分がいるのだ。隔靴掻痒の思いだ。
でやや祈りからは話は逸れるけども、清岡卓行の本「手の変幻」。むろん、ミロのヴィーナスの「失われた両腕」のエセーや、半跏思惟像の「思惟の指」の清岡の詩などの印象はすこぶる鮮やかで手のもつ不思議さに心を打たれた。清岡も祈りの手の表情としては、グリューネヴァルトの『イーゼンハイム祭壇画』の「キリストの磔刑」を取り上げていて、マグラダのマリアの合掌の手の表情に言及している。確かに痛みやはげしさは認められるがボクは「祈りの魂の交差」は感じられなかった。総じて本の構成は美術、文学、音楽や映画、写真などひろい分野を扱っているから肩も凝らず拾い読みなんかにもいいかも知れない。この本は以前美術出版社から出ていてカバーがよかったのであえてスキャンしてみた。