Emmausブログ

人は見ね/人こそ知らね/ありなしの/われは匂ひぞ/風のもて来し

風を聴く・風を語る


ふと今見たこと、聴いたものはそれは何だ。光の束、音の流れ。鶯の囀り。馬の嘶き。豚の尻尾?

だが今、こうして日本語というわたしの貧しい<言葉>以外ないものを通してあなたに向う。じれったい?そうでもないぞ。

ならば、わたしの思いが先ずわたしの内にあって次ぎに外に向うように考えているのか。あるいは外と感応して、トースターや洗濯機にようにロジックや体系(構造)を通して考えているのか・・・。伝えようとするのか。そういうことでもない。

それよりここに風がある。ある方向に向うが風。それはどこから来るのは分からない。それにわたしたちが耳を欹てて思い続ける。このように考えるとは、だから唯一私だけのものでなく、わたしたちによって世界を見通す(思う)ということになってゆく。

つまり三上さんが言うようなhttp://d.hatena.ne.jp/elmikamino/20080308/1204983228。砕いて云うと・・言葉を文字として吹き込むことは、活字の彼方に世界(我ら)の<風>を刻むことではないか。

あるいは中山さんのエントリーhttp://d.hatena.ne.jp/taknakayama/20080303/p1のように、一つに専業することではなく、もっとわれら全体の風を知ることではないか。

日常にあって、rairakku6さんがhttp://d.hatena.ne.jp/rairakku6/20080310、グレングールドの<風>を愉しむことだ。

そうして常に美のあり方の本質の<風>を送って下さるmmpoloさんがいつも言及される。http://d.hatena.ne.jp/mmpolo/

もっともっと多くのブログの仲間たち。

このようにわたしの思いや考えが唯一わたしの言葉で出来たのではなく、わたしは皆さん(他者)から<風>を聴いて見ているのだ。これはお世辞ではまったくない、わたしに必要なブログ力を知ってしまったのだ。