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“だれ一人自分のためにだけ生きる人はいない”

塩一トンの読書・須賀敦子

塩一トンの読書

塩一トンの読書

きっちり足に合った靴さえあれば、じぶんはどこまでも歩いてけるはずだ。そう心のどこかで思いつづけ、完璧な靴に出会わなかった不幸をかこちながら、私はこれまで生きてきたような気がする。
ユルスナールの靴」・須賀敦子

元より自分の足に合う完璧な靴などあるはずがない。反語によるこれは須賀彼女自身のノマッド(放浪の民)の告白だろうか。帰るべき故郷を失ったユルスナールの生涯の痛みに思いを抱くと同様に、ノマッドの孤独に居る者ならば他者との等質性は自他の相違を超えてもなおかかる言語感覚に共鳴し惹きつけるのもむべなることだ。

ボクは何時からだったかよく分からないが多分切っ掛けは「辻邦生・廻廊にて」だった*1か、ここの処小説を読むことが面白くなっている。とりわけ漱石の「草枕」(http://d.hatena.ne.jp/Emmaus/20070304/p1)から「ふと思ひ出す事など」(これが小説といえるかどうか疑問だが)あたりですっかり読むことが面白くなった。正直話のすじはすじで良いのだろうが、何が書いてあるのかというよりも、ある処にここに作者が力が入っていると思うと何度も読んでみる。味わうこと自体が愉しい。こんなふうにも読めるあんなふうにも読めると愉しさが倍になる。それであんなふうにもこんなふうにも読めるからまさにいい小説だと素直に思えてくるのだ。

「ひとりの人を理解するまでには、すくなくとも、一トンの塩をいっしょに舐めなければだめなのよ」・・・それを舐めつくすには、長い長い時間がかかる。まあいってみれば、気が遠くなるほど長いことつきあっても、人間はなかなか理解しつくせないものだって、そんなことをいうのではないかしら。

文学で古典といわれる作品を読んで、ふと、この塩の話を思い出すことがある。・・・(略)現代社会に暮らす私たちは、本についての情報に接する機会にはあきれるほどめぐまれていて、だれにも「あの本のことなら知っている」と思う本が何冊かあるだろう。ところが、ある本「についての」知識を、いつのまにか「じっさいに読んだ」経験とすりかえて、私たちは、その本を読むことよりも、「それについての知識」をてっとり早く入手することで、お茶を濁しすぎているのではないか。ときには、部分の抜粋だけを読んで、全体を読んだ気になってしまうこともあって、「本」は、ないがしろにされたままだ。相手を直接知らないことには、恋がはじまらないように、本はまず、そのもの自体を読まなければ、なにもはじまらない。・・・私たちは、詩や小説の「すじ」だけを知ろうとして、それが「どんなふうに」書かれているかを自分で把握する手間をはぶくことが多すぎないか。

そんな本を読むこと、人生を振幅の豊かさを教えてくれた、彼女(須賀)の姑、夫もじっくりいっしょに一トンの塩を舐めるひまもなく、はやばやと逝ってしまった。

須賀は「ユルスナールの靴」の<あとがきのように>でこう書いている。

作風への感嘆が、さらに、彼女(ユルスナール)の生きた軌跡へと私をさそった。人は、じぶんに似たものに心をひかれ、その反面、確実な距離によってじぶんとは隔てられているものにも深い憧れをかきたてられる。作家ユルスナールにたいして私が抱いたものは、後者によりちかいものであったが、才能はもとより、当然とはいえ、人生の選択においても多くの点で異なってはいても、ひとつひとつの作品を読みすすむにつれて、ひとりの女性が、世の流れにさからって生き、そのことを通して文章を成熟させていく過程が、かつてなく私を惹きつけた。ユルスナールのあとについて歩くような文章を書いてみたい。

日々読み返す本は少ないが、ボクにとって須賀の本は多くの事を読むごとに様々に物語ってくれる。須賀は姑からイタリアの諺を本とのつきあい方に話を還元しているが、本も人も出会いのはじめはみな何もかも知らないところの新たな「ゼロ」から始まるのは実に意味深い。小説を読む愉しみはしばらく続きそうだ。